燕の長善館に学び日本医科大学の前身の済生学舎創設した長谷川泰の銅像が生地に建立、燕市から顕彰ムードに火が着く (2013.5.6)

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燕市(旧粟生津村)にあった私塾「長善館」に学び、日本医科大学の前身となった「済生学舎」を創設した長谷川泰(1842-1912)の銅像が生まれ故郷の長岡市新組地区の北越戊辰戦争伝承館前にこのほど建立された。

長岡市新組地区の北越戊辰戦争伝承館前に建立された長谷川泰の銅像、左奥に見えるのが伝承館
長岡市新組地区の北越戊辰戦争伝承館前に建立された長谷川泰の銅像、左奥に見えるのが伝承館

銅像は長谷川の功績をたたえて1916年、東京の湯島天神に建立され、戦時中に接収された銅像の復刻を目指した。長岡市在住の彫刻家、峰村哲也さんが制作し、湯島天神にあったのと同じいすに座った長谷川が本を手にした姿。湯島天神の長谷川は丘の下を見下ろしていたが、故郷では長善館のあった弥彦山の方角を見据える。

高さ約1.7メートルで台座を含めると裕に2メートルを超す大きさ。地元有志で2010年1月に発足した「長谷川泰を語る会」が募金活動を行い、約300人から1,200万円もの寄付が寄せられた。台座には協力者として長善館史料館の吉田勝館長の名前も刻む。4月18日に除幕式が行われた。

在りし日の長善館の方角を見据える長谷川の銅像
在りし日の長善館の方角を見据える長谷川の銅像

長谷川は幕末から明治にかけて日本の医学発展に貢献した。戊辰戦争に伴う北越戦争では河井継之助(1827-68)に雇われて長岡藩の藩医として従軍し、継之助の最期をみとった。貧しく、病気に苦しんでいる人を救う「済生救民」を実践。創設した済生学舎は、多くの日本の開業医を育て、野口英世(1876-1928)もそのうちのひとりだ。

しかし、これまでその功績は地元でもあまり知られていなかったが、郷土の偉人を顕彰しようと2010年に「長谷川泰を語る会」が発足。ご当地伝記マンガ『長谷川泰ものがたり』の出版をはじめ、長谷川にちなんだ講演、少年野球、史跡散策などの事業に取り組んだ。

台座には長善館史料館の吉田勝館長の名も刻まれる
台座には長善館史料館の吉田勝館長の名も刻まれる

「語る会」発足当初から銅像建立の話はあった。ほんの茶飲み話ていどだったが、とんとん拍子で実現に向かった。「県央地域、燕市、長善館、粟生津の皆さんが長谷川泰を盛り上げてくれたのが大きかった」と「語る会」事務局の恩田富太さん(37)は振り返る。「ちょうどクイーンが英国よりも日本で人気に火が着いたように、地元よりも燕市から火が着きました」。

『長谷川泰ものがたり』は、広告デザインを手掛ける恩田さんがストーリー、元イラストレーターの妻が漫画と夫婦で制作した。その出版について燕市が2011年の「広報つばめ」3月1日号で、4ページを割いて掲載した。燕市が再び長善館にスポットライトを当てたのとあいまって長谷川にも注目が集まることとなった。燕市が2012年に行った燕ジュニア検定には長谷川に関する問題も出題された。

「長谷川泰を語る会」の事務局で夫婦でご当地伝記マンガ『長谷川泰ものがたり』を制作した恩田富太さん
「長谷川泰を語る会」の事務局で夫婦でご当地伝記マンガ『長谷川泰ものがたり』を制作した恩田富太さん

長谷川には「顕彰されてしかるべき実績」があり、銅像の建立にまで至ったのも「当然の評価をされただけ」と恩田さん。大事業を終わり、「これまでの事業をを基礎にこれからの顕彰活動をどうするかが課題です」と話している。また、銅像を建立した敷地の整備などがまだ終わっておらず、「語る会」では引き続き募金を行っている。問い合わせは電話「0258-24-3123」へ。

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