24日から6月6日まで燕市の新庁舎「つばめホール」で開かれている燕市役所新庁舎完成記念の横山操作品展「若き日の息吹」にあわせて26日、会場で大山治郎コレクション美術館の代表、大山治郎さんによるギャラリートークが行われ、約160人が来場して熱気あふれるトークとなった。
横山は旧吉田町出身の昭和を代表する日本画家で、吉田町名誉町民の後、合併した燕市の名誉市民となっている。大山さんは横山さんのおいが燕市に寄付した横山の本画5点の修復にかかった費用500万円を寄付して紺綬褒章を受けている。今回の作品展でも大山治郎コレクション美術館所蔵の横山の作品2点を借りて展示している。
大山さんは横山が燕市の旧吉田町で私生児として生まれ、不遇な幼少期を過ごし、ふるさとの原風景ともいえる西川に何度も身投げしようとしたことなど、時代を追って横山の生涯を語り、それにつれて変化した横山の作風を実際に当時の作品をプロジェクターで映して語った。
横山は11歳で県展に入選する非凡な才能を見せた。念願の川端画学校に入学した当時、19歳のときに描いた自画像。20歳で青龍展に初入選した「渡舟場」は会場にも展示されている。同じ年に養父が死去、新発田歩兵第16連隊に入隊し、終戦まで中国各地を転戦し、シベリア抑留後、30歳で吉田町へ戻り、再び画家を目指して上京した。
横山の作品には再三、西川や弥彦山、はさ木が描かれている。ふるさとはつらい思い出の場所でもあるが、「何を描いてもこの人はふるさとから離れることはなかった」と大山さん。51歳で脳卒中で倒れて右半身不随になると、左手での制作を開始。画家は死の予感を描くと言われるように、53歳で死ぬ半年ほど前に描かれた作品の空の色は、「この空の色は西方浄土というか、仏が住むような、幽玄なひとつの深い悲しみに沈んでいるかのよう」。
描きかけで絶筆となった作品に描かれた細い道には、そこの横山が立っているように見え、それまでの作品と違って道が途中で消えたようになっている。「横山操の意識しない死の世界がこの絵のなかにあらわれてきている」。死の間際に訪れた横山と互いを認め合うライバルだった加山又造に「日本画の将来はどうなるんだ」と横山が話したエピソードも紹介した。
大山さんは「横山操さんの絵は単なる風景画として見るのではなく、この中には横山操さんの思いが込められているということを皆さんからも良く知っていただきたいし、横山操さんの叫びがわたしたちに感動を与えてくれる」、横山の画業は「不滅なものであって、わたしたちの同じ地域から生を受けた人が、これだけの人がいるんだということを、これからも横山操を誇りに思って横山操を語ってもいいのでは」と1時間にわたって横山に対する熱い思いを語った。
また同展の来場者は初日24日238人、2日目25日141人、3日目26日の午前が72人と、ここまでで450人を超えている。