燕の背脂ラーメンを生み出した前身の「福来亭」から数えてことしで開業80年となった「杭州飯店」(徐勝二店主・燕市西燕)。「こんがにありがてーことはねーて。あとはうちらは、とにかくおいしいラーメンを作らんきゃだめらってことらねぇ」と主人の勝二さん(67)は、きょうも妻の富子さん(67)とふたりで調理場に立っている。
同店へ入ろうとすると自動ドアのガラスに白地に青く「おかげさまで八十周年」とある、自由で大胆な筆致の書が目に飛び込む。勝二さんの友人で弥彦村の書家、県展無鑑査の田中藍堂さんが80周年の祝いに書いてくれた。店内には昔ながらのなじみ客から贈られた花がいくつも飾られている。
6月30日まで80周年感謝祭を実施中で、麺類やチャーハン、ギョーザ、生ビールがそれぞれ100円引きだ。開業以来、感謝祭のイベントを行うのはこれが初めて。「ちっとは余裕ができたら還元したいゆーて、うちんの(富子さん)が、とくに一生懸命、言ってたからさ。おい、80周年だがんね、やらいんのんねーか言ったら、やれやれって」と笑う。
17日に弥彦温泉で「杭州飯店八十周年を祝う会」が開かれた。勝二さんが副理事長を務める新潟県麺類飲食業生活衛生同業組合の荒納正晴理事長が発起人代表となって開いてくれた。組合関係者やかつて会社で大量に出前を注文してくれた昔ながらのなじみ客など実に124人が参加する大宴会となった。参加者への引き出物の焼酎のラベルも田中藍堂さんが書を書いてくれた。
杭州飯店の前身、福来亭を開業したのは勝二さんの父、昌星さん。中国出身で、1930年ころ出稼ぎで来日した。炭坑で働いたが体を壊して上京後、宮城県仙台市でラーメン屋を開いて成功していた中国出身の先輩をたずねて修行。屋台を賃貸ししてくれ、仙台から山形、福島と流れ、そして新潟へ。
津川町(今の阿賀町)で先輩が開いていたラーメン屋で手伝いし、その隣の鍛冶屋の娘と駆け落ちして屋台を引いて白根(今の新潟市南区)の仲間のもとへ。そこで燕は工業地帯で景気がいいからと言われ、中ノ口川沿いの村々に立ち寄って当時は珍しかったラーメンで商売しながら燕へ。中央通りの菓子屋が道路向かいの倉庫前の空いたスペースを貸してくれ、そこに屋台を構えた。そして昭和8年(1933)、燕駅近くの穀町で間借りして福来亭を開業した。
当初は今より麺が細く、スープもあっさりしていた。肉屋にチャーシュー用の肉を買いに行くと、脂肉を取り除いてラードにし、それでも余ったものは捨てているのに目をつけた。ラードは甘みを生むことを知っていた。脂肉をラーメンに入れることを考案し、煮干しとのバランスをとることを研究した。昌星さんの仲間でも誰も脂肉を使っておらず、「うちのじいちゃんは頭、いかったこてね」(富子さん)。
杭州飯店の背脂ラーメンと言えば、背脂に加えて太めんとタマネギが特徴だ。勝二さんは昭和39年(1964)、18歳で店に入った。当時、工場がたくさんあった朝日町にたくさん出前を運んだが、数が多すぎて麺がのびた。6人で出前に行っても100個となると運ぶだけで大仕事。50個にもなれば6人でも2回に分けて運ばなければならない。なんとかのびないラーメンをと、試行錯誤して今のような太麺に変えた。「太めんになるしかなかった」と勝二さんは言う。
毎日、試食と研究を兼ねて家族全員でラーメンを食べていた。当初は長ネギを入れていたが、なぜか母はタマネギを入れて食べていた。そこへ長ネギが不作で高騰した年があり、やむを得ず長ネギより安かったタマネギに変えた。同時に「スープも変えるし、麺もちょっと変えるし、やっぱり本当に苦肉の策だよね」と勝二さん。これが逆にラーメンに甘みを加えた。
「商売なんかね、常に努力しねとだめらってことなんだよね」、「どれほど頭を使うってわけでもなんでもねーんだけど、やっぱり自分の経験のなかでね、どうしたらいいかってことで、また家族で知恵を出し合ってさ」と不断の努力の積み重ねがあった。
昭和52年(1977)に福来亭を残したまま、杭州飯店を開いた。初代の昌星さんは上海の西に接する杭州市、その南に位置する温州市の出身で、福来亭を開いたときから、いつかもうひとつ店がもてるようになったら「杭州飯店」と名付けたいと話しており、その夢を実現した。
当時は桜町に工業団地ができて企業の進出が進んでおり、少しでもその近くへと今の場所に出店した。当初は本格中華料理店として開店し、2階には宴会用の貸席、送迎用のマイクロバスも備えた。駐車場が広いこともあって市外からもラーメンを食べに来る客が増えたため、貸席はやめた。「郊外店の走りになるのかね」と勝二さん。
新発田市出身の富子さんとは、昭和41年(1966)に結婚した。富子さんの兄が営む製麺屋で働いているところを勝二さんの上から2番目の姉が気に入った。「(姉に)ものすごい良く働く人だからね、絶対、商売するにはこういう人じゃなきゃだめら言ってね」と当時の姉を思い出す勝二さん。「見合いでね。3回断られて4回目に来ていただいたの」と目尻を下げ、「4度目らて。3度目であきらめちゃだめらて!」と大笑いする。2人で店を切り盛りして50年近くなる。
ラーメンブームより早く15年くらい前から全国から客が来るようになった。勝二さんは「ネットでうちを見つけてたずねてくれるんだわね。ネットが全国的に有名にしてくれたんじゃねーかと俺は思うんだけどね。だってうちは宣伝、いっさいしないもん」。
富子さんは、「新潟県に行ったら、時間があったら燕まで寄ってこいって言う人がだいぶいるからね。ありがたく思わんばだめらね」と口コミに感謝する。勝二さんも「宣伝しなくたってお客さまがそうやって宣伝してくれるんだもん」、「いいお客さんばっか恵まれて幸せだよねー」、「商売屋としては最高らよね」と感謝し、「あとはうちらは、とにかくおいしいラーメンを作らんきゃだめらってことらねぇ」と肝に銘じる。
富子さんは昌星さんのことを思い出す。「うちのじいちゃんがよー言ってたもん。自分はお金は残さんねけども、お客さんは残していぐっけ、それをお前たちがどう守るからって、良く言ってたわ」、「若いときに聞いたとき、なーに金、残してくれればいいがんねと思ったけど」、「今考えてみればさ、逆に金なんか払ったって人間関係なんか築かんねもんね」、「頭のいい人だったからね」と昌星さんの言葉に今になって感心させられることも多く、昌星さんが生み出した味だけではなく、客や昌星さんの商売に対する考え方も引き継いでいる。