新潟県三条市下田地区出身で日本民主主義の先駆者、自由民権政治家の西潟為蔵(にしかた ためぞう)(1845-1924)。三条市福岡地内に建つ田中角栄(1918-93)が揮毫(きごう)した西潟為蔵の顕彰碑の解説板が設置され、その除幕式が13日に現地で行われた。
解説板は縦90cm、横150cm。西潟為蔵の略歴、顕彰碑文、相関図を紹介する。除幕式には設置した三条市やNPO法人西潟為蔵会、地元から関係者らが出席。滝沢亮三条市長、西潟家第12代当主で三条信用金庫理事長の西潟精一さん(67)、西潟為蔵会会長の弥久保宏駒沢女子大学教授と今井誠顧問の4人で解説板にかけた白布を引き外した。
西潟為蔵は、戊辰戦争中に命懸けで百姓惣代、鹿峠駅問屋役を務め、地租改正の用掛にも尽力。のちに自由民権運動に参加し、第1回帝国議会衆院選に当選。新潟大学の母体となる旧制新潟高等学校緒誘致、新潟盲唖学校への創設、運営にも努めた。とくに今は交通不能国道となっている国道289号「八十里越」の開削を私財を投じて成し遂げた。
1968年11月、その生まれ故郷に顕彰碑が建立された。当時の旧下田村・土田嘉久雄村長が顕彰碑建設委員の代表に就き、正面の碑文は田名角栄が「西潟為蔵翁之碑 越山田中角栄謹書」と揮毫した。五十嵐川左岸、清流大橋から約1km上流の西潟木材前の堤防道路沿いに建つ。
解説板は西潟為蔵会の働きかけもあり、三条市が三条シティセールス事業の一環として整備。あわせて来訪者の目印となる「西潟為蔵顕彰の碑」とある道路の誘導板も立てた。
弥久保教授は「よそから来る人が難なくたどり着けるようにしようというのがきっかけだった」と解説板設置の経緯を話し、「これは今から53年前に先輩方が行った顕彰活動でやり残したことを今、令和の私たちがやり残したことをやらせていただいた。53年前の先輩たちと一緒になって顕彰活動をしている」。
さらに「漢文調の文章を現在の文章に私の拙い学識で書かせいただいたが、おそらくたくさんの間違いがあると思う。はあるけど、この間違いは50年後、あるいは22世紀の西潟為蔵会の人に補ってもらえれば」と顕彰活動が継続されていくことに期待した。
2年後は西潟為蔵百回忌で、3年後の没百年は地元大浦小学校の創設150周年。23年後の生誕200年を盛大に祝いたいとし、「おそらくそのときこの解説板の横にNHK大河ドラマ主人公という放映済みの新しい看板が立っていることを祈念する」と夢を膨らませた。
滝沢市長は、先に国交省が国道289号の新潟と福島を結ぶ通行不能区間、通称「八十里越」が今後、5年ていどで全通する見通しを示したことにふれ、「この年に解説板が除幕されたのは本当にいいタイミング」と喜んだ。
滝沢家の先祖は福島県会津にさかのぼり、戊辰戦争のときに下田へ移った。滝沢市長は「福島との縁を身をもって感じており、この縁を目に見える形で次につなげていくのが私自身の役割かと思う」、「八十里越の開通はもちろんのこと、両県がしっかりとつながる、市民、住民の気持ちがしっかりつながる気運をさらに醸成させていく。しのぶだけではなくて目に見える形で、これからますます我々も頑張っていきたい」と述べた。
西潟さんは、昭和43年の顕彰碑の除幕式に「中学2年生で出席し、除幕した。今回の解説板で人生2回の除幕をさせていただいた」と感慨ひとしおだった。八十里越開削のため私財を投じているだけに「実は西潟家のなかでは為蔵の評価が極めて低く、相当なるギャップを感じる」が、「郷土を少しでも良くしようというその1年だけだったと推察する」と新たな顕彰の気運を喜んだ。
福島県の渡部勇夫只見町長と大宅宗吉南会津町長のビデオメッセージの上映や出雲崎町の遠藤岳道さんによるほら貝による献曲の演奏も行われた。