新潟県燕市分水地区の近現代史の生き字引とも言える存在で良寛研究でも知られた氏田公基(うじた こうき)さんが26日、死去した。76歳だった。氏田さんは1年半ほど前から肺がんをわずらって闘病していた。
氏田さんは上京して中央大学を卒業、証券会社で働いたあと、ふるさとへ戻り家業だった総合建設業・株式会社氏田組の三代目として長く代表取締役社長も務めた。燕市建設業協同組合でも役員として貢献した。
一方で地元分水地区の歴史や文化、さらに越後の禅僧、良寛の調査、研究をライフワークにしていた。NPO法人信濃川大河津資料館友の会の理事長、自身が立ち上げた国上山良寛史跡ボランティアガイド「はちの子会」会長、分水良寛会の会長を務めた。分水地区にゆかりの良寛や西行法師などをテーマに燕三条まちあるきのナビゲーターも務めた。同時に自身の知見を広めることに精力的だったことでも貴重な人材だった。
燕市が制作した燕市の史跡や文化財を子どもたちが訪ねて紹介する動画「ブラつばめ」の2019年5月にYouTubeに公開された第4弾「良寛編」で氏田さんは「はちの子会」会長として案内役を務める在りし日の姿を見ることができる。
また、5月に燕市が発行する『郷土史燕』第18号に氏田さんの12ページにわたる寄稿「燕市(旧分水町)の企業の誕生及び企業誘致の黎明期」を収録する。
『郷土史燕』は、燕市に関する研究や記録、調査の市民からの寄稿の記録集。毎年、刊行している。氏田さんは過去に何度も寄稿している。2年前の第16号では「大河津橋の思い出」として氏田組が建設した木橋時代からの大河津橋について書いており、第18号が氏田さんにとって絶筆となるようだ。
氏田さんと古くからの知り合いの元中学校教諭の分水良寛史料館・松井淳館長は「江戸時代、この通りが三国街道だったとか、分水駅が高くなっているのは盛り上げないと大河津分水路の鉄橋を高い位置に作れなかったとか、まちのいろんなことを知ってる人でした」と思い出す。
「非常に温厚で博学な人。人と会ったときには言葉数が少ないかったけど、ここに来て地域の歴史の話とか、私を相手にしたりするとは、いきいきと1時間でも話した」と言い、「3週間くらい前にも会ったような気がする」と惜しんでいた。
葬儀は家族葬で行うが、3月3日午後5時半から6時半までセレモニーホール分水で一般弔問の時間を設ける。