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水不足で復旧作業はかどらず(2004.7.17) |
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7・13水害の被災地、三条市・嵐南地区は17日、土曜の会社が休みの人が多いこともあり、前日16日も増して被災者の親せきや知り合い、同僚が続々と復旧作業の応援に駆けつけたが、水道の出が悪く、作業は思うようにはかどっていない。
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南四日町2地内の復旧作業
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嵐南地区では一帯に悪臭が漂い、し尿の臭いや消毒薬の刺激臭が鼻をつく。前日から降ったりやんだりしている雨が泥を洗い流してくれ、ほとんどの道路のアスファルトは見えているが、まだ数cmの泥がたまっているところもある。
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重機による作業
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前日に続いて家財道具や畳を家から運び出す作業が中心。それが終わると、床にたまった泥の処理だが、断水している地域が多く、水が出てもちょろちょろで、掃除ははかどらない。あまり意味がないとわかっていても、泥を外へ押し出すくらいしかできない。 それでも、とりあえず冠水地域はなくなり、先は見えなくても作業を続ければ少しずつでも復旧は前進するだけに、住民の顔にはしだいに明るさが戻っている。 応援に訪れて「遅くなってわーりかったね」と、思わず抱き合って目を潤ませる主婦。向かいの家の人に「お疲れ様です」と声を掛けて励まし合う人もいる。
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ごみの山の向こうに水害前と変わらない姿で立つ松尾与十郎の銅像
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今回、決壊した堤防は、片口村に生まれた松尾与十郎が私財を投げ打って明治10年(1877)に築堤した。それまで、嵐北地区側には堤防があり、嵐南地区側は出水のたびに遊水池となっていた。 その松尾与十郎の銅像が被災地の中心部、四日町地内の日吉神社のある四日町公園に立つ。銅像は台座が下から50cmほど水につかった跡が残っており、銅像はまったく水につかることはなかった。銅像となった松尾与十郎は、築堤から127年後の7・13水害をどんな気持ちで見つめていただろう。
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