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三条市水害復興記念公園で松尾与十郎像と新堤碑の移設完成式典、与十郎は35年ぶりに五十嵐川を見下ろし、見守る (2010.10.6)

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相次ぐ五十嵐川の洪水から左岸側、今の三条市・嵐南地区を守ろうと、私財を投げ打って明治10年(1877)に堤防を完成させた松尾与十郎(1832-86)の像と嵐南築堤を記念した石碑「新堤碑」が三条市水害復興記念公園に移設され、6日、現地でその完成式典が行われた。

三条市水害復興記念公園で行われた松尾与十郎先生記念碑・新堤碑移設完成式典

三条市水害復興記念公園で行われた松尾与十郎先生記念碑・新堤碑移設完成式典

午前11時から行われた式典には関係者数十人が出席、小雨のぱらつくなか、傘を差して見守る市民もいた。八幡宮・藤崎重康宮司が神事を行い、関係者が紅白のひもをひいて与十郎像と新堤碑にかけれた白布をはずして除幕した。

あいさつで新潟県三条地域振興局地方整備部治水課の伊藤聡課長は、五十嵐川災害復旧助成事業への市民の協力に感謝し、「五十嵐川においてこうした整備がされてきたのは、先人の方々の大変なご努力とご苦労があったことと再認識しておるところであります」と敬意を示した。

移設実行委員会の渡辺実行委員長

移設実行委員会の渡辺実行委員長

国定勇人市長は、6年前の7・13水害で犠牲になった9人に哀悼の意を捧げ、与十郎像と新堤碑が三条市水害復興記念公園に移設されたのは、「めぐりめぐってのさまざまな因縁なのかな」と感じ、「先人たちの思いをしっかり受け止めながら、これから先も安心、安全のまちづくりのために身を粉にして働いていかなければならない」と話した。

渡辺喜彦実行委員長は、6年前の水害の義援金をもとに昨年、同公園に慰霊碑を建立したのに続き、ことしは与十郎像と新堤碑の移設を計画し、完成たことを関係者に感謝した。

渡辺実行委員長も小学生のころ、常盤橋南側に建立されていた与十郎像の場所に「先生に連れられてこの松尾先生の偉業を教えていただきました」。その後、土手の改修や道路の整備で新堤碑とともに四日町地内の日吉神社にまとめて移設された。

左から松尾与十郎像、新堤碑、慰霊之碑

左から松尾与十郎像、新堤碑、慰霊之碑

「しかし、この二つの記念碑は五十嵐川の土手に関する大事業を行われたことにちなんだ記念の碑」であり、移設委員会メンバーで「この記念碑を松尾先生が五十嵐川と三条のまちを遠望できるこの諏訪地内の公園にまとめ、毎日、松尾先生に見守っていただくことが良いのではなかろうか。松尾先生もそうしてほしいと願っておられるような気がいたしました」と考え、「再び五十嵐川の土手にお移しし、永く後世に伝えたいと発願した」。

松尾与十郎像の前で記念撮影

松尾与十郎像の前で記念撮影

そして「この公園をみんなで大切にするとともに、市民の皆さまの手でいつまでも美しくきれいに、そして永く松尾さまのご功績を後世に語り伝え、松尾さまに続く多くのすばらしい人材が輩出されるまちとなることを願ってやみません」と話した。

35年ぶりに五十嵐川を見下ろし、見守る与十郎

35年ぶりに五十嵐川を見下ろし、見守る与十郎

昨年、三条市内の三条、三条南、三条北、三条東の4つのロータリークラブで寄付を募り、水害復興年公園に「慰霊之碑」を建立。その寄付の残りを使い、移設実行委員会を組織して移設した。

与十郎像は昭和34年(1959)に常盤橋の嵐南側たもと、新堤碑は明治20年に御蔵橋の嵐南側たもとにそれぞれ建立された。与十郎像は昭和50年(1975)、新堤碑は61年(1986)に日吉神社に移設され、それから与十郎像は35年ぶりに再び五十嵐川を見守ることができる場所に戻った。

与十郎は片口村の裕福な庄屋だったが、私財を投げ打ったために傾き、東京へ移らざるを得なくなり、子孫が絶えたとも言われていたが、この日は与十郎のひ孫にあたる松尾幸子さん(75)=東京都目黒区=とその孫の礼子さん、三条市花渕に住む親せき筋の内山敏雄さん(60)も参列した。

左から与十郎のひ孫の松尾幸子さん、その孫の礼子さん、親せき筋の内山敏雄さん

左から与十郎のひ孫の松尾幸子さん、その孫の礼子さん、親せき筋の内山敏雄さん

幸子さんによると、与十郎は養子を迎えたあとに実子をもうけたという。幸子さんは戦時中に2年間、内山さんの家に疎開し、いとこと過ごした楽しい思い出があるという。与十郎像完成の式典が行われたときは三条市へ足を運んだという。

与十郎の話は「子どものころから良く聞かされていました」と当時のことを懐かしく話していた。