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【小耳聞き耳・番外】捧武さんとの思い出 (2010.12.22)
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20日に急逝したアマチュア写真家の捧武さん=燕市中央通4=。遠い記憶をたどれば、初めて捧さんに会ったのは20年以上も前。写真家としてではなく、燕市のソフトボールの関係で、確かチーム「藤進会」の何周年とかでタオルを作ったなどといった取材で伺ったときと思う。
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2003年5月、写真集「かやぶきと生きる」出版後に関係者を旧岩室村・綿々亭綿屋に招待したときの捧さん
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再会したのは、2001年春の燕ふれあい文化祭が最初だっただろうか。それから友人を通じて写真集『かやぶきと生きる』の編集作業を頼まれ、2003年3月に出版。それ以降の写真集の編集を手伝い、出版を記念した作品展や捧さんが会長を務めた地元写真グループ「PHOTO風音」の作品展の案内はがきのデザイン制作をしたりと付き合いは続いた。
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2002年7月、済生会三条病院で開かれたPHOTO風音の作品展で会員で記念写真、後列左から2人目が捧さん
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写真集編集作業は無償で手伝ったが、打ち合わせなどのたびに食事をおごってくれた。出版記念展が終わると、かかわった人たちを旅館でごちそうに誘ってくれた。そういう人だった。姉が嫁ぐとき、捧さんから打ってもらった布団を嫁入り道具に用意したこともあとになってわかり、さらに親しみを感じた。
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2005年1月、写真集「秋山庄太郎と新潟」の出版に向けて六朝館で打ち合わせ
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22日の通夜を前に21日夜、式場に飾る捧さんの遺影を選びに、捧さんの家をたずねた。捧さんの家を訪問したことは、数えるほどしかないが、居間に上がらせてもらったのは初めて。それ以前は、アトリエともいえる作業場か、捧さんが営む布団店の店内だった。
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21日、捧さんの家で捧さんの遺影を広げる
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2005年、写真集『秋山庄太郎と新潟』出版を記念した祝賀会で泣いて話せなくなった捧さん
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捧さんが写る写真を広げ、そのなかから約30枚を選んだ。8年前、捧さんの家の作業場でモノクロ写真を広げ、捧さんと友人と3人で写真集『かやぶきと生きる』に収録する作品を選んでいたときのことを思い出した。それが今は遺影を選んでいるという状況が悔しかった。
いつかは必ず訪れることとはわかっていても、やっぱりこういう日が来たのかと現実を目の当たりにして、つらい。2005年、写真集『秋山庄太郎と新潟』出版を記念した祝賀会であいさつに立った捧さん。「わたしも72歳になりまして、あと…男性の平均寿命が80前ですから…」と話したところで涙があふれ、声を詰まらせた。ずっと早くに亡くなった捧さんの師匠格だった大久保英夫さんのことなどを思い出したらしい。そんな捧さんも逝き、今度はこっちが泣く番だ。
(佐藤雅人)
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