16日夜、三条市総合福祉センターに到着した東日本大震災と福島原発事故の団体避難者のなかには、到着後に食べた炊き出しのみそ汁に、「おいしかった〜、ありがとう」と言い、あたたかい食べ物は地震発生の11日以来と、1週間が経過した避難生活の疲れを話す人もいた。
到着した避難者は、南相馬市内の避難所のひとつ「ゆめはっと」という施設に市内全域から避難していた人のうち、新潟県への避難を希望した約250人。大型バス6台に分乗し、1台目が−0.4度の冷え込みとなった午後10時過ぎに到着。ほとんどの人が毛布の包みとほんの少しの身の回りの物だけを入れたようなリュックや小さな手提げ袋を手に、暖房を効かせた同センターに入った。
避難者に添乗した南相馬市職員によると、市の東が海に面しており約1,800戸が津波の被害に遭った。津波を免れた山側の人たちも原子力発電所の事故により避難。避難所には、なかなか救援物資が届かないと話していた。
1歳の赤ちゃんをはじめ小さな子どもを連れた家族もいたが、高齢の人が目だった。国定勇人市長のあいさつと避難所の説明のあと、この日、給食調理場で急きょ調理したおにぎりとみそ汁を食べ、同センターの多目的ホールをはじめ、研修室などの各部屋に分かれてもらい、一人ひとりに敷き布団と毛布、掛け布団が配布された。
避難者の多数の人は、原発施設から10キロ、20キロ圏外へと複数の避難所を移動しており、三条が3カ所目、4カ所目。家が津波で流されたという人や、津波の水がひかないために2日目にボートで救助してもらったという人も。「ひざまで水につかって避難した」という年配の女性は、長靴を脱いだ靴下がまだぬれていた。
また、「着の身着のままで避難所に行った」とはんてん姿や薄いジャンバーなど、防寒着を着ていない人も。「地震だけだったら、すぐ帰れると思っていた」と、原発事故も加わり予想外に長期化する避難生活に不安を感じている人もいた。
布団の配布に驚いていた女性によれば、福島の避難所では毛布や布団はなく、床にビニールシートや薄い毛布を敷いただけで「寒かった」。もちろん、風呂に入ることもできず、同センターに入浴施設があることを喜んでいた。
津波で被害を受けたという60歳代の女性は、亡くなった人もたくさんいると話した。避難所はここで4カ所目。三条市が用意した1杯のみそ汁が、地震発生後初めて口にしたあたたかい食べ物だったそうで、「みそ汁、おいしかった〜。本当においしかった。ありがとうございます」と頭を下げていた。福島の避難所での食事はおにぎりと水だけで、そのおにぎりもだんだん小さくなっていったそうで、「ニワトリの卵くらいになった」だけに、大きなおにぎりに笑顔だった。
また、添乗してきた南相馬市の男性職員2人は、同市の職員も手が足りない状況と話し、疲れた表情だった。それでも同センターのなかでも休むことなく動き、すべての避難者の確認などを行った午前0時近くに再びバスに乗り込み、翌日も同市民を避難させるためにと6台のバスとともに南相馬市に戻っていった。
あいさつで国定市長は、「わたくしども三条市は皆さんと一緒にいるつもりでございます。皆さんと一緒になってこの難局を乗り切っていきたい」と避難者にあいさつした国定市長は、添乗の職員がほとんど眠っていないという話を聞き、「あのころを思い出し、切なくなる」と7・13水害当時の記憶が重なっていたようだった。
この日、同センターのほかに、ソレイユ三条で9人の避難者を受け入れた。