燕市被災者支援対策本部(本部長・鈴木力市長)は、3月31日の第1避難所に続いて翌4月1日、第2避難所の市民研修館・武道館で鈴木市長と避難している人たちとの懇談会を開いた。この避難所で生活する主に福島県南相馬市の被災者の半数、約50人が出席して、ふるさとや犠牲になった家族への思い、南相馬市の対応への不満、今後の生活の見通しなどを話した。
男性は「南相馬市には悔しいことがいっぱいあって…この場では言いたくありません。きょうも血圧が高くなって…ふるさとには(言いたいことが)いっぱいあります」と怒りに声を震わせた。
「家族が自分のほかに4人ほどいたんですけど、全員、津波に巻き込まれて」と話す男性は、海から約200メートルの所にあった家が「そっくりなくなっちゃてる状態」。「家族を探したいという本音もありますし、早く戻りたいというのもあります」と思いを吐き出した。
しかし、放射能の被爆のおそれがあり、帰りたくても帰れない。燕市への避難もためらった。「やっぱり家族を探すことを個人的にはね、したかったんですけども、やっぱり南相馬市とかいろんな人が、お前が被爆したら亡くなった家族を誰が供養すんだ、という言葉をもらいまして、やっぱりいろいろ考えましてお世話になることにしました」と肩を落としながらも、「いろんな意味で皆さんの協力を得ながら、何とか乗り切っていきたい」と自分を諭すように話した。
別の男性は、個人的に「一点だけお願いしたい」と声を詰まらせて話し始めた。「幸い子どもたちは離ればなれに住んでまして難を逃れましたんですけど、家内がやはり津波に持っていかれまして、死亡ということになりました。先ほどの方が四名ほどね、亡くなりましたので…これから、わたしの場合は発見されまして、明日、南相馬の方にうかがって検案書を警察の方からいただいて、それを市役所の方に死亡という形で届けるという行為が発生しました」。南相馬市へ向かうために車を貸してほしいと頼んだ。
避難生活の長期化が予想されることについて別の男性は「このまま燕市の皆さんに迷惑ばかりかけるのは大変、心苦しい」と恐縮する一方、長期間の滞在は「家族同様」であり、「自分たちのできる範囲内はぜひ、自分たちで行うような村長さんはじめ、委員の方々のお骨折りによって進めていきたいと。そういうことによってお互いに理解し合い、あるいはお世話になっていながらも心の少し安らぐこともあるんじゃなかろうかと」、「お互いに和やかに長くお世話になるという方向に進んでいただきたい」と積極的な自主運営を求めた。
さらに、「市の施設を私たちが独占するような形」になっているのが「大変、心苦しい点」で、「お互い遠慮ないご意見を交わしていたただき、長くお世話になりたいと思っております」と話したのに対して鈴木市長が見通しを含めて考えを話した。
鈴木市長は、2週間後になるか、1カ月後になるか、これからの状況しだいだが、いずれ体育館は燕市民のために元に戻して開放しなければならないと答えた。「われわれも皆さんと市民が共存共栄できるような施設のつくり方、利用の仕方を考え、そのためにも今、少しずつ準備を始めて皆さんの方で自主的にやっていただく部分をどんどん増やしていきたい」。「我々が皆さんにご迷惑なり、手をかける部分も出てくるかもしれません。その時はお互いに話し合ってどうしてったらいいか、良い関係を築いていきたい」と懇談会などコミュニケーションの大切さを強調していた。