燕市議会は21日、市職員や燕市に避難する福島県南相馬市民とともに南相馬市を訪れ、市議会からの義援金30万円を直接、桜井勝延市長に手渡し、被災地を回った。
燕市議会から大岩勉議長をはじめ市議5人と議会事務局など市職員4人、さらに燕市の避難所で避難生活を送る南相馬市民ら10人余りも同行。市のバスで日帰りの日程で南相馬市へ向かい、午前11時半から市役所で桜井勝延市長と懇談。さらに同市鹿島区役所を訪れて佐藤洋光区役所長と懇談した。
桜井市長は、この日の24時をもって福島第1原発から20キロ圏内をそれまでの避難指示から法的に立ち入りを制限する「警戒区域」となることを伝え、インフラが復旧せず、避難している人たちにも迷惑をかけていることをわびた。
一方で「東京電力については最後まで責任をもってもらいますということを申し上げている」、「わたくしの方からお願いをして何かをしてもらおうなどとはいっさい、思っておりません。やるべき責任は東京電力側にあるとういことを最後まで申し上げてまいりますし、その姿勢を崩すことはいっさいない」と毅然とした態度を示し、理解を求めた。
東電と会わないという首長もいるが、「わたしは扉を閉ざすことはしません。話し合いには応じますが、先ほどの姿勢を貫いていくということだけは皆さんもご理解いただきたい」、「南相馬市の再興に向けて皆さんとともにしっかり歩んでいきたい」と述べた。
市職員は燕市に支援の体制や経過を説明。大岩議長は「御市の正確な情報がほしい。また、いろんなことを伝えてほしいというのが(南相馬の)皆さんの声」で、「皆さんに伝える情報を燕市に流してほしい」と求めた。
また、一時帰宅などに対する考えについても桜井市長が回答。30キロ圏外は変わらず住むことができ、20キロから30キロの屋内待避区域は一両日中に概ね解除され、避難準備区域に変わり。市内の避難所は一時、2カ所まで縮小したが、仕事の関係で戻った市民が増え、再び避難所を4カ所に増やした。
原町区の市営住宅は十分、今でも住むことができる。小高地区の20キロ圏内は午前0時から立ち入り禁止となり、「不自由であっても避難所での生活をお願いしたい」と求めた。
燕市に避難している南相馬市民は避難当初、南相馬市の対応に不満を募らせていた。しかし、しだいに市では対応しきれないほどの現状を知り、市職員の立場に対する理解も深まっている。桜井市長との懇談にも桜井市長に矛先が向くかとも思われたが、ふるさとに戻った安心感や知り合いの職員と顔を合わせたこともあってか、穏やかな表情で、とくに発言もなかった。
対応し切れない状況は、市庁舎を見ても明らかだった。1階の市民課は、被災証明を申請する市民が窓口から円を描くように行列をつくり、がやがやとごった返した。
居合わせた市職員の話では、市立病院も含めて約500人の市職員がいるが、燕市だけでも4人の市職員を派遣しているように東北各県や新潟の避難所にそれぞれ市職員を派遣しており、残った職員で何とかやりくりしていると話していた。
1階と対照的に庁舎の2階以上は閑散としていた。燕市議会が庁舎を出るの入れ替わりに佐藤雄平知事が来庁し、慌ただしさを強調していた。
佐藤鹿島区役所長は、南相馬市は福島第1原発から20キロ以内、20キロから30キロ、30キロ以上に分かれ、3つのタイプに対応しなければならない難しさがあることや、放射能とそれに伴う風評被害もことしはコメの作付けをしないことなどを話していた。
一行はあわせて建設が進む市内の仮設住宅や津波の被災地も見て回った。津波は海岸線に沿って南北に延びる国道6号が津波被害の運命を分けているところが多く、国道6号から海側は建物も防風林もなくがれきだけ、逆に山側はこれまでと何の変わりもない風景と、明暗をくっきり分けていた。
報道されているように、海岸から陸へずっと入ったところに漁船が打ち上げられた現実とは思えない風景もあちこちで見られた。建物が少ないせいか、気仙沼や仙台のように地面が見えないほどがれきが重なっているところはわずかだったが、地盤沈下で震災から1カ月以上もたつのに水が引いていない水田が至るところにあった。
海岸部でも丘陵部で斜面を少し登ると、あるところを境にまったく津波の影響が見られなくなり、海岸からの距離よりも土地の高低が大きく運命を左右したこともはっきりわかる。
海岸から約5キロ、桜平山(さくらだやま)公園はごみの集積場になっていて、ショベルカーで積み上げられたがれきの山は、三条市や燕市の市民にとっては、2004年に三条市の嵐南地区を水没させた7・13水害のときの三条競馬場跡地のごみの山を思い出させた。
桜平山公園と鹿島区役所の間を流れるのが、真野川。その最も下流側、河口付近に架かるのが真島橋で、橋の欄干はには今も巨木が引っかかったまま。燕市の避難所から訪れた相馬市民のうち何人かがそこから海岸部に住んでおり、再び津波にさらわれて何もなくなったふるさとの土地を前に、目を真っ赤にして惨状を話していた。
自衛隊も各地にキャンプを張り、海岸部の至る所で今も遺体の捜索活動を続けており、迷彩色やカーキ色の自衛隊車両が行き交い、サービスエリアで背中に「防衛省」とある制服を着た人を見かけ、緊迫した状態にあることを思い知らされる。
帰路に着く前に南相馬市原町区錦町、福島県相双保健福祉事務所相双保健所でバスに乗ったまま、バスと人と一緒に放射能汚染の有無を調べるスクリーニング検査を受け、汚染されていない証明書を受けた。
同事務所前にはテントを張ってスクリーニング検査を行い、検査の順番を待つ人の行列ができていた。担当職員の話では、この日で20キロ圏内が警戒区域となって立ち入り禁止になるため、自宅へ荷物を取りに戻った人が多く、検査に行列ができるのは初めてと話していた。また、自身はこれまで除染が必要なケースには一度も遭遇したことがなく、深刻な風評被害を嘆いていた。
津波の被害を受けなかった市街地はふつうのように見えるが、良く見ると商店はシャッターが閉まっていて、事業者は屋内に電気がついておらず、人影も見当たらず、ゴーストタウンを思わせる状況。ふつうに外を歩いている子どもいれば、市役所では放射能の防護服を着た人も見かけ、安全と危険が同居しているようでもあった。