2日から19日まで燕市産業史料館で開かれている横山操初期作品展の作品解説会が4日、同史料館で開かれ、展示作品の修復作業にあたった横山の教え子、多摩美術大学の中野嘉之教授による解説に約150人が聞き入った。
市は一昨年12月に横山のおいの横山一男さん=埼玉県蓮田市=から横山の作品の寄付を受けた。そのうち、折りたたまれるなどして保存されていた5点の本画の修復を中野教授に依頼。約10カ月の修復作業を終わった作品を今回展示していることから、中野教授による作品解説会を開いた。
解説会を前に鈴木力市長から中野教授に感謝状を贈呈した。中野教授は1946年に京都府京都市に生まれ、多摩美に学んで横山操の指導を受けた。元創画会会友で現在は無所属。京都美術文化賞や芸術選奨文部科学大臣賞を受賞している。
作品解説会では修復した作品を一点ずつ順に修復の作業内容や修復の考え方について話しから、横山との出会いやエピソードへと話を進めた。
六つ折りにたたんであったものもあり、線を消す作業が難しく、穴が開いていた作品もあったが、「部分的には勘所でまったく手をつけていないところも」ある。色は絵の具の基本色があるので思ったほど難しくなく、乳鉢に絵の具を入れて戻して元の色を知ることもできた。
修復作業のなかで「線のスピード」を感じ、下絵と見比べると本画が下絵をなぞるのではなく、新しい作品を描くように一気に筆を走らせていることもわかった。
横山が『芸術新潮』に生徒の作品を載せてくれると言うので、5人の生徒が作品の写真を横山の元へ持って行くと、横山は中野教授の作品を真っ先に見てくれた。てっきり選ばれるだろうと思っていたら中野教授だけが外された。「傲慢さは要らんということだったんでしょう」と中野教授。しかし、そのあと横山に呼ばれると1万円を手渡された。中野教授はその1万円を全部使って絵の具を買い、枕元に並べた。
同時期の日本画壇で活躍したもう一方の雄、加山又造(1927-2004)との親交も深く、加山から「今のうちだよ、絵を辞めるなら」と何度も冷やかされ、横山がそのたびにかばってくれたことも話した。
「大学院で先生に出会ったのが運命の分かれ目」と、横山との出会いから自身が日本画へ向かう姿勢に与えた影響について話した。横山が所属した青龍社を脱退したように、中野教授も創画会を離れて無所属に。「(横山から)大学に残れと言われたのは、学生の面倒をみろといわれたのだろう」。
横山が絵画の中に生み出す線や空間は「魔術のようで、デッサンを見るとほとんど天性のもの」、「訓練でできるものではない」と手の届かない存在と認める。一方で徴兵、シベリア抑留で昭和25年(1950)の復員から同48年(1973)に53歳の若さで亡くなるまで、実際に活躍したのはわずか20年余り。中野教授は「その間にこれだけの仕事を残されたことが私のなかでは重要な意味をもっている」と話してた。
中野教授は当時を思い出して大笑いしたり、横山から受けた心遣いを思い出して声を詰まらせたりすることも。ついきのうまで横山がそばにいたかのように生き生きと横山の姿を話す中野教授の言葉の中には、今も横山が生きていた。