東日本大震災で福島県南相馬市から燕市へ避難している市民に対応するために南相馬市が派遣していた職員の最後のひとりとなった相良昭子さんが16日で派遣の任を解かれ、南相馬市へ戻ることになった。9月1日に創刊したばかりの燕市被災者サポートセンター便り「絆」は相良さんとの別れを知らせる号外を発行し、相良さんもあいさつ文を寄せた。
15日午後、あいさつがてらに相良さんが勤務する燕市吉田庁舎の燕市被災者サポートセンターをたずねた。「楽しくても涙、悲しくても涙です」と相良さん。今も胸の内は複雑だ。
相良さんが燕市へ派遣されたのは、震災から1カ月近くたった4月9日。鮮明に覚えている。避難所が開設された市民体育館で、一緒に派遣された若手職員とともに避難生活を送る人たちと向き合っていた。
避難していた人たちのいら立ちはピークに達していた。震災直後、南相馬市内の避難所は、電気も暖房のない室内で震え、食べる物にも事欠いた。さらに避難所を転々としたのち、どこへ行くとも知らされぬまま乗り込んだバスが燕市に到着したという被災者も多かった。
そのうえに職員の派遣を1カ月近くも待たされた怒りの矛先が、相良さんら南相馬市の職員に向かった。部屋には叱責や怒鳴り声が響いた。ただ、ただ、頭を下げるしかなかった相良さん。あるていど覚悟していたとは言うが、市職員とは言っても相良さんも被災者であることに変わりはない。震災直後の市の対応の不備の責任は相良さんにはない。それは避難している人たちも承知しているが、わかっていても言わずにはいられないという気持ちも痛いほどわかる。
このシーンが今も強烈に焼き付いている。たまたま、その1、2日後、相良さんと市内のスーパーでばったり会った。相良さんは高校生の息子さんと一緒だった。相良さんはマスクをつけていて目しか見えなかったが、なぜか人違いとはこれっぽちも疑わず、思わず声をかけた。とはいえ、気の利いた言葉のひとつも出てこず、情けない思いをしたのを思い出す。
当初、南相馬市から燕市へ派遣された職員は4人だったが段階的に減って9月からは相良さんひとりに。派遣の辞令は1カ月だったので、派遣期間が長引けば職員の交代があると思われたが結局、相良さんは1カ月ごとに都合5回の辞令を受けて5カ月間、震災から半年で派遣を終了し、再び市健康づくり課(原町保健センター)へ戻る。
相良さんの家は南相馬市小高区。原発事故に伴って警戒区域になっており、震災でも家は無事だったが立ち入りが禁止されている。8月上旬に初めて一時立ち入りに戻っただけ。南相馬市へ戻っても我が家は「近いのに遠いですね。新潟の方がはるかに近いです」と苦笑いする。
震災の日は息子さんの中学校の卒業式だった。節目、節目で早くに亡くした両親の墓の建つ大熊町へ墓参りに行く。大熊町はまさに原発のある町。この日も卒業式を終わり、午後から息子さんと墓参りへ出かけ、その帰りの車中で震災に遭遇。目の前で納屋や塀が倒れるのを目撃した。
震災前から原発には「漠然とした不安はありました」。現実は想像をはるかに超えた。万が一、原発事故があっても「自分の避難くらいじゃないですか。まさか町ごと避難するような状況はイメージしてませんでした」と。
避難所はなくなったとはいえ、今も燕市内には雇用促進住宅などで100人以上が避難生活を送っている。そのパイプ役となる南相馬市の職員の常駐がなくなるのは燕市にとって痛手だし、避難している人たちにとっては心細い。
ただ、相良さんは南相馬市原町区の市が借り上げる住宅に住むが、息子さんは夫の両親とともに燕市での生活を続けるので、今後もちょこちょこ燕市へ顔を見せてくれるはずだ。個人的には、相良さんから消雪パイプや子どもが長靴をはいている姿に驚いたり、なぜ南相馬市の人は「ひげ率」が高いのかという分析を聞いたりと、茶飲み話を楽しませていただき、あらためて感謝申し上げますm(_ _)m。