三条市は10月30日午後1時半から諸橋轍次記念館=三条市庭月=で稲川明雄氏講演会「北越戊辰戦争と八十里越」を開き、河井継之助記念館の稲川明雄館長=長岡市長町1=を講師に戊辰戦争史に欠落した河井継之助の八十里越を中心に聴いた。
稲川館長は「河井継之助をどうしても好きになれなかったのになぜか館長になった」と笑わせて始めた。自身も過去に2度、昭和49年と54年に三条市下田地区の吉ヶ平から福島県只見町まで八十里越を越えている。
敗走する同盟軍は、八十里越を越えて越後から会津へ逃れた。その数を只見町史は1万5,000人としているが、同盟軍が越後平野で戦ったのは約8,000人と記録があり、稲川館長は、「ちょっとまゆつばじゃないか」。
八十里越は実際は23キロ、八里しかないが、稲川館長は自身が歩いた実感から「八十里とは良く言ったもんだ。1里が10里に相当して8里ある。この峠をよくもまあ越えたな」。
最初、国道というからバイクで越えようと思ったら、「それは死にますよとか言われて」。当日は雨も降り、椿尾根からは「眺めがいいから後ろ振り向いてくださいなんて言われたって、振り向く元気もなかった。振り向いたら崖っぷちの上に立っている風な感じ」。
建設省の八十里越策定委員会の委員として調査報告書を編集するなかで、自分の歩いたルートは戊辰戦争当時の八十里越のルートとは半分くらい違っていることにがっかりしたと言う。
継之助は担架に乗って登ったと言われるが、その前に長岡藩の侍家族、水戸藩の脱走兵、そして会津、米沢の兵隊がどんどん越えてる。研究者は越後の戊辰戦争は長岡城の落城で終わり、戦争は会津若松攻略戦に移ったとしていることに不満を示した。
明治20年に明治維新史研究会が戊辰戦争を調査したが、八十里越の話は欠落、調査しなかった。長岡城攻防戦、新潟攻防戦、三条の戦いで西郷隆盛の弟の吉二郎が三月岡で負傷したことなどは書いているが、八十里越は戊辰戦争史からはエアポケットのように欠落している。しかし、八十里越の記録は、勝った戦記を残そうと加賀藩や富山藩にちゃんと残っている。
そうした八十里越戦記を印刷した資料を元に説明し、エピソードを紹介した。森町村の家に逃げ込んできた同盟軍の兵士は、あったかいコメを懐に入れて逃げることができてありがたかったと記した。
そして長岡藩の40歳の人。八十里越を越えたら妻子と妹が只見へ下りてきたら、自分の子どもと妹の子ども3人のうち1人がいないので問いただしたら背負えずに1人は谷底へ投げてきた。男は八十里越を戻って遺体を持ち帰り、火葬にした。
さらに同盟軍の武士が八十里越を越える仲間に食糧をと、かますに握り飯をいれて逆走。握り飯を配って歩き、残り少なくなったので、子どもだけに配っていると、老人の武士が子どもから握り飯を奪って食べたら正気に戻って切腹した。
東大医学部をつくった長岡藩士、小金井良精は9歳のときに八十里越を越えた。母は米百俵で有名な小林虎三郎の妹、幸(ゆき)。その後妻に入ったのが森?外の妹、森喜美子。小林喜美子となって母からの八十里越の聞き語りを記した『戊辰のむかしがたり』と、そこにある短歌「かきくらし袖に涙のふるさとは そなたとばかり内眺めつつ」も紹介した。
「長岡藩はおかしな藩だと思いますよ」と稲川館長。妻子が夫を追って落人になっているが、「これはあんまりないと思う」。会津藩の女性は、のどを突いて死んでるが長岡藩の女性は「なかなか死なない」。武士は「死ぬことと見たり」、死生観が大切と言われるのにと。
長岡藩上席家老の山本帯刀は会津の飯寺で降伏を受け入れずに首を切られたが、妻が再婚。会津の人から「貞操というのはあるのか!と怒られましてですね、私が怒られてるような」と笑った。
会津の死生観に対し、「長岡は基本的に小さな藩だからどんな人間でも生というものを大切にしようとする」、会津藩は「学問のレベルがすごく上がっていると死んでも生きる。死んでそこに花実を咲かせると考える」。「そう言うと長岡藩がばかみたいですが、わたしはその方が極めて現実的だと。日本が太平洋戦争に負けたのはですね、みんな優位な人間がどんどん死んだから」と少々、脱線。
稲川館長は12月23日から全国ロードショー公開される映画『聯合艦隊司令長 山本五十六』にかかわっており、そのせりふのなかに、山本五十六が昭和18年4月18日に死ぬまでの戦死者は、太平洋戦争の戦死者の10分の1だったたが、山本五十六が死んで以降に10分の9が死んだという一節がある。「山本はいかに戦争でも死者を少なくするかという戦いをする」と継之助と同じような精神が山本五十六にもあったと見る。
そして継之助が八十里越で呼んだ自嘲の句とされる「八十里 腰抜け武士の 越す峠」に稲川館長なりの解釈を披露。八十里越をたんかで運ばれていた継之助は、死ねばいいと思っていたが、八十里越を越えてからにわかに考え方が変わった。会津藩の武士の切腹に影響されたという説もあるが、稲川館長が自身も八十里越を越えた経験を継之助の句に重ねた。
椿尾根を越えて鬼面山の辺りに来るとまったく越後は見えない。険相な山のなかを通りながら自分の道を振り返り、問いただして呼んだのではと。「もう武士の世界は終わったんだと。俺がやりたいことを本当はこれからの社会はやれるんだ。彼は近代的な経済を見つけていただんから、近代経済のなかでどうしたら豊かな国をつくることができるのか。豊かな国というのは、女子どもが幸せになるような国をつくること。そういうことを考える」。
継之助は理想家とも言われるが、そうではなく「本当に現実的な物事のとらえ方をしてまじめな優しい人だと思うんです」。坂本龍馬のようだという人もいるが、龍馬と違った「越後人らしいまじめさ、愚直、直江兼続の話じゃないですけれども、まじめな、真っすぐ生きていく、そういうところが見える。人のためになる、感謝を忘れないようにしよう。新潟県の人たちはそういう意味での宗教観は極めて強い」と評価した。
講演の最初は継之助を否定するような物言いに始まったが、結局は継之助を礼賛。会場には稲川館長が顔を覚えているほどの熱烈な継之助ファンも多く、約百人が来場。壮大なロマンを膨らませてくれる稲川館長の話に時間を忘れて聞き入っていた。