燕市教育委員会は、燕市体育協会の主管で21日午後7時から燕市吉田産業会館で与田剛スポーツ講演会を開き、中日ドラゴンズの剛球投手で鳴らした与田剛さん(46)を講師に「スポーツの力 今、この時、自分ができること」のテーマで300人余りが聴講した。
与田さんは、NTT東京で全日本代表メンバーに招集され、89年に中日ドラゴンズに入団し、リリーフで活躍した剛球投手。96年に千葉ロッテマリーンズに移籍。メジャーリーグ2Aにも野球留学し、98年に日本ハムファイターズにテスト入団し、00年に阪神タイガースにトライアウト入団したが、同年に引退。09年のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)日本代表で投手コーチを務め、2連覇に貢献。ことし3月までNHK『サンデースポーツ』のメーンキャスターを務めた。
ダークスーツを着て登壇した与田さんは、一目でスポーツ選手だったとわかる並外れて広い肩幅で逆三角形の体格。後の席からも手が大きいのは明らかで、現役時代の面影どころか、今も会場を圧倒する存在感。会場には少年野球の小学生や中学校野球部員、地元のスポーツ団体の指導者など訪れ、ジャージやウインドブレーカーを着た人が目立った。
与田さんは、ことしは東日本大震災でプロ野球をはじめ、たくさんのスポーツ界が困難に遭い、いろいろな人と向き合った年で、そのなかで「わたしの専門である野球を通して何ができるのか」を話し、「あとは野球界の裏話をたっぷり」と始めた。
中日ドラゴンズに入団した当時の監督は星野仙一さん。星野さんを理想の上司ともてはやすニュースを見るたびに、「何も知らな人たちが、と笑っていました」と、星野監督の鉄拳制裁のまさに裏話を紹介。00年に入団した阪神の監督は野村克也さんには「なぐってくれた方が楽なのにというくらいぶつぶつ」。
野村さんには「人間というのは生まれもって不公平、不平等なものである。しかし時間だけはどんな人間にも平等に与えられている」という言葉をいいタイミングでもらった。
星野さんと野村さんという対照的な2人の監督につき、今度はWBCで監督の原辰徳さんの下で投手コーチに。代表チームは「サムライ・ジャパン」と呼ばれたが、原さんの「サムライに茶髪はいないんだ」で、茶髪の選手に黒髪に戻してもらったエピソードを紹介した。
大会で選手から学んだのは、一流の選手にある素直さ。それと2つの「気付く」と「築く」の能力に長け、「誰かに言われたことを素直に受け入れることができる。だからこそ誰よりも早く“きずく”ことができる」。『サンデースポーツ』でほかのスポーツの一流選手から感じたのも素直さだった。
東日本大震災が発生したときは海外だった。その後、セパ同時開幕がかなわなかったマスコミで取り上げられた。その理由について、セリーグに説明不足があった一方、セリーグはドーム球場が少なく、ペナントレース終了が遅れてしまうことなどの実情を話した。
被災地を訪問して、子どもたちと一緒に遊んだ。千葉県浦安市に住む与田さん自身も被災者で、液状化現象に見舞われた。市の放送で奉仕活動の呼びかけがあるとボランティアに向かった。家の周りの土砂の撤去などの作業を2週間くらい続けた。友人たちと物資を集めて友人が被災地へ届けてくれた。
何度も球団を首になってなぜ立ち向かっていけるのかと良く聞かれる。どうやったら夢がかなうかと聞かれると「かなうまで続けるから、かなうだんと言う」、どうやったらうまくなるかと聞かれると「うまくなろうという気持ちと、うまくなれる方法をまず自分で考えてくださいと言う」。自分で考えて行動したことが身に付くという考えだ。
高校2年生の息子も野球の道を選んだ。まだレギュラーになれないが、途中で退部だけはするなと言っている。甲子園春夏連覇の興南高校の我喜屋監督は、途中でやめるという習慣を絶対に高校時代につけさせたくないと言っていた。さらに3年間、野球部という肩書きをもって卒業しろと言い、補欠にも野球の楽しさ、仲間の大切さ、続けていくことの大切さを教えていくと話しており、与田さんは我喜屋監督が指導者であると同時に「まさしく教育者。教え、育むという“教育”という文字の通りの人と思いました」と言い、教えることはできても、育むことの難しいと話した。
「頑張れ」という言葉が大嫌いで、「準備」という言葉を使う。「目標ができれば準備をしてくださいと皆さんにお願いをしています」。「素直に、正直に自分のことを話せる友だちを知り合いをたくさん、これからもつくっていってほしいし、わたしもそうしたいと思います」。「心掛けていることは、相手を嫌いにならないこと、嫌わないこと」とスポーツに限らず人生に生かせる自身の考えや教訓も話した。
無理をして選手寿命を縮めてしまったことにもふれた。選択に迷ったときは「選んだ方向が正しかったんだという結果を出しゃいいじゃないかと、それだけに集中をしてきました」。後悔をしないためには「自分自身がその場その場で決めたことを絶対に責任をもってやっていくという、だからこそ他人に言われたことに左右されないように自分自身で決めるということ」。最後に中日監督だった落合博満さんが名監督となると思ったエピソードも紹介した。
講演のあとは会場から質問を受けた。最強の打者と投手を問われて、打者は初めて場外本塁打を打たれた清原和博さん、投手では野茂英雄さんや伊良部秀輝さんをあげた。下手な人にも野球を続けてもらうには、勝敗だけのこだわらずたまに使ってテストを受けさせてほしい。
FAとポスティングシステムに対する考えも話し、監督をする意志を問われると、監督はさておき「指導者としてプロ野球のユニホームを着たいという思いはすごくもってます。チャンスがないんですね…」。
最後に吉田中学校野球部キャプテンの2年生治田丈さんから与田さんに花束を贈呈。与田さんは会場中央の通路を通って来場者と握手。その後も会場で玄関ホールでサインに気さくにサインに応えていた。