東日本大震災からちょうど1年の11日、各地であらためて犠牲者を追悼する式典やイベントが行われた。福島第一原子力発電所の事故に伴う福島県南相馬市から避難してきた人を中心にピーク時には611人もの避難者を受け入れた三条市でも、総合福祉センターでアトラクションや追悼式典が行われた。
会場の総合福祉センター内に開設されている避難者交流拠点施設「交流ルームひばり」が主催。「がんばって 生きっぺ! 東日本大震災から1年ー鎮魂・感謝ー」と題して午後1時から行われた。
三条市は東日本大震災から6日目の16日深夜から8月31日まで市内4カ所に避難所を開設。そのなかでも総合福祉センターは最初に避難所が開設された施設あり、その後の「交流ルームひばり」の開設と、三条市にとって東日本大震災のシンボリックな存在といえる。
今も市内には集合住宅などに分散して272人が避難生活を送っており、追悼式典には約200人が参加。まずアトラクションで地元の三小相承会が三条太鼓、きよ里 with トシ遠藤が三線と歌を披露した。
三小相承会は途中、「福島も新潟もこれからがんばって生きっぺ!」と会場と声を合わせて気勢を上げた。きよ里 with トシ遠藤は、祝いの席で歌うことは多いが、鎮魂の歌を歌うのは初めてと冒頭、『アヴェ・マリア』を披露。きよ里さんは南相馬市原町区から三条市へ避難していた高校生たちと一緒に昨年4月23日、三条市嵐南公民館でコンサートも開いている。
追悼式典はテントを張った駐車場で行い、1年前に地震が発生したのと同じ2時46分から黙とうを捧げて始まり、福島第一原発のある大熊町から三条市内の子どもの家を頼って避難している高野一郎さんが追悼の言葉を述べた。
高野さんは避難者が第一に望むのは「1日でも早く警戒区域が解除になり、除線、ライフラインの復旧、雇用の場の確保、産業の復興にスピード感をもって対応してもらうことです。そして震災前の安全、平穏な生活に戻ること」。1年たった今、豪雨や豪雪に遭いながら支援を続けてくれている三条市に「感謝の気持ちを忘れることなく、お亡くなりになられた方々の分まで強い絆をもち、そしてきょうという日を節目に自立に向かって頑張って生き抜いていきたい」と話した。
国定勇人市長は追悼の言葉で、犠牲者に哀悼の意を表した。「この大震災はわたしたち日本人にとって永遠に忘れることのできない深い哀しみ」で、「国難とも言える大災害からの復興は決して平坦な道のりではありません。今こそ日本国民が一丸となり、被災された皆さまが一日でも早く安心して暮らせる町が取り戻すことができるよう、そして震災以前を超えるほどの素晴らしい町を作り上げていくという強い意志で力を結集し、復興を成し遂げていくことこそが、お亡くなりになられた方々に対するわたしたちの責任であると考えております」。
三条で共に暮らす272人の被災者が「無事に元の生活を取り戻せるその日まで、共に歩み、最善を尽くしていくことをここにお誓い申し上げます」と述べ、犠牲者の御霊が永遠に安らかであることを祈り、遺族に弔意を表した。続いて献花のあと、避難者が願い事を書いた短冊を下げた300個の風船を飛ばして終わった。
国定市長はあいさつでも声を詰まらせそうになった。献花をして席に戻ると、初めて避難者を受け入れた日の夜のことなどを思い出したのか、目の前の何もない空間をじっと見詰めていた。避難者の多くが献花に向かう途中で国定市長に向かって会釈した。国定市長はそれに応えて頭を下げるたびにさまざまな思いが込み上げ、歯を食いしばり、顔をゆがめてこらえていた。
会場では月岡小学校6年生が牛乳パックを再利用して作ったはし置きを来場者にプレゼントし、国定市長にも手渡した。風船に下げた短冊には「明るく前向きに進みましょう」、「あまりガンバリ過ぎずにガンバッテください」、「南相馬市が安全になりますように」「みんなが元気になりますように」、「早く小高に帰れますように」、「避難している人が早く帰られますように」など、避難者や市民がつづっており、「福島まで飛んでってくれればいいんだけど」と話す人もいた。
ちなみに2005年の「第10回三条よってけ祭り」で飛ばした風船が岩手県陸前高田市に届いており、まんざらあり得ないというわけではない。