1912年8月25日、越後鉄道株式会社開業
1912年8月25日。越後鉄道株式会社が新潟市の白山と西蒲原郡吉田村の間に鉄道を開業させた。これが現在のJR越後線の始まりである。
1912年は元号でいえば7月30日まで明治45年、それ以降は大正元年である。今のような情報社会ではなかったにせよ、明治天皇崩御の報は『新潟新聞』などで報じられたはずである。また、この年、警視庁はフランスの兇賊映画「ジゴマ」の余りの人気ぶりが子どもに悪影響だとして映写禁止を決定した。ちょうど、大正デモクラシーの入り口という時代だった。
そんな時代からちょうど100年、吉田駅も100歳ということである。この吉田駅を鉄道ファンの視点から、そして歴史的視点から2回に分けて取り上げてみたい。第1回目は鉄道ファンの視点から。
2つの路線がX字状に交わり乗換駅の面目躍如か
吉田駅は全国的に珍しい駅である。これが鉄道ファンの視点からの結論である。それはなぜか。比較的小さな町である吉田できれいに2つの路線がX字状に交わっているのが珍しいのである。
これを読まれた方には、近い所で新津駅もX線状に交わっているではないかと指摘されそうだが、新津駅は信越本線、羽越本線、磐越西線と3つの路線が集まる駅であり、純粋に2つの路線、吉田駅では越後線と弥彦線がX字状に交わっているのは珍しいのである。
実はこのX線状に交わる吉田駅だからこその風景がある。それは、4つの方向から列車が集まり、また散っていくのである。例えば、18時台。18時03分に越後線の新潟行、柏崎行が同時に出て行く。吉田駅の3つあるホームにはドアが開いて乗客を待つ電車はいなく静寂に包まれる。
しかし、18時30分、弥彦からの吉田行列車が到着する。4分後には東三条から吉田行の列車が到着する。わずか1分後の18時35分には柏崎からの列車、その2分後には新潟からの列車がそれぞれホームに滑り込む。わずか7分の間に4方向から一気に列車が集まる。
新潟からの列車が到着した4分後、まず東三条行の列車が出て行く。その1分後には新潟行、そのまた1分後には柏崎行の列車がそれぞれ出て行く。そして、18時46分弥彦行の電車が発車する。最初に弥彦からの列車が到着してから16分間に、4つの方向から列車が集まり、また出て行くのである。まさに、乗換駅の面目躍如たる風景である。
4列車とも「吉田止まり」も一種の平等か
とくに吉田駅を直通して「柏崎から新潟へ、弥彦から東三条へ」ではなく、4つの列車とも「吉田止まり」の列車というのがこれまたおもしろい。確かに、直通したい乗客にはこれほど面倒な話はないのだが、これも一種の「平等」なのかと勘ぐりたくなる。
もちろん、朝の高校生が通学する時間帯もそうである。18時台ほどめりはりはないが、4つの方向から列車が集まり、また散っていく。列車が集まったころにはホームには高校生たちの会話でにぎわう(かったるそうな顔も見えるかもしれない)。そしてホームから列車が出払ってしまうとそれまでの喧噪がウソのように静寂となる。
私事で恐縮だが、私の高校生時代、私の友人の多くが吉田駅で乗り換えて高校に通ってきていた。彼らにとっても吉田駅での乗り換えは確かに面倒なものだったに違いない。けれど、吉田駅で4つの方向から一気に列車が集まるからこそ、それほど待たずに乗り換えられたのである。
吉田駅の1日の乗車人員は10年で1割減るも乗換駅としての存在感は健在
JR東日本が公表しているデータによれば、吉田駅の一日の乗車人員は1,759人(2010年度)。10年前の2000年度は2,055人だったので、残念ながらこの駅から乗車する人数はこの10年で1割ほど減ってしまった。しかし、この数値には乗換客は含まれておらず、この数値以上に吉田駅を使う人たちは多いのである。
さらに、吉田駅がおもしろいのは、4つの方向から集まる列車のすべてが「普通列車」なのである。それも、そのほとんどが国鉄時代に製造された「115系電車」という車両で、たまにJRになってから製造された「E127系電車」の2種類しかない。E127系電車は越後線では吉田−新潟間しか運行されず、ほかの3方向では115系電車のみである。
たいていの乗換駅は一方の路線が幹線系の路線で特急列車が走っていることが多い。例えば、身近な例で東三条駅。信越線には特急「北越」が走っている。しかし、吉田駅は特急列車は走っていない。そういう意味では「地味」なのである。
とはいえ、たまに普通列車以外の列車も走る。それは弥彦への団体列車や臨時列車であることが多い。団体用の「NO・DO・KA」(のどか)が駅に掲示されている時刻表にはない時間帯に吉田駅のホームに停まっていることもある。まさに、西蒲原のターミナル駅に花を添えるかの如くであり、見かけた方は幸運なのかもしれない。
新潟県中越地震で吉田駅を特急電車車両が通過
実は、特急列車は来ないといったが、8年前の一時期、特急電車の車両が吉田駅を毎日通過していたことがある。それは、新潟県中越地震で信越線の柏崎−長岡間で路盤が崩れるなど長期にわたって不通になったことがあった。この時、新潟と上越地方を結ぶ列車が運行できなくなった。さらに、上越新幹線も列車が脱線し不通になった。そこで、信越線と上越新幹線の迂回路として新潟と長野の間で臨時快速列車が運行された時期があり、その列車は「特急電車」の車両が使われた。
大変な災禍だったことには間違いないが、信越線、そして上越新幹線の代替、振替先として機能した越後線だったのである。そのほぼ中間の位置でどんと構えるのが「吉田駅」なのである。
3月17日のJRダイヤ改正では、新潟市の社会実験として、昼間時間帯に吉田−新潟間の列車が増える(6月末までの予定)。果たして、「地味な乗換駅」から、やっぱりクルマで行くより鉄道で行く方が便利だと思われるような駅へと変わるのか。
開設からちょうど100年を迎えた「吉田駅」からは目が離せない。次回は、その100年の歴史に光を当ててみたい。
(文・藤井大輔)