天保4年(1833)に今の燕市粟生津に私学「長善館」を創設した儒学者、鈴木文台(すずきぶんたい・1796-1870)の血脈をひく東京都・杏林大学の名誉教授、鈴木正彦さん(86)=東京都三鷹市=が25日、今は誰も住んでいない鈴木家の本家に残る書画20点余りを燕市長善館史料館に寄付した。
正彦さんはめいで画商を営む小川康子さん=東京都練馬区=とともに長善館史料館を訪れ、寄付した書画にまつわるエピソードなどを紹介した。正彦さんは文台のきょうだい、隆造の子孫であり、鈴木家の本家筋にあたる。本家は同史料館のすぐ近くにある。
注目なのは、長善館の二代館主鈴木■(りっしんべんに「易」)軒の八男、鈴木虎雄(1878-1963)が昭和17年に書いた漢詩。海軍兵学校に入学した正彦さんを激励しようと、粟生津の家で鈴木さんの目の前で書いてくれたと言う大幅の軸だ。
日露戦争で東郷平八郎元帥(1848-1934)、大東亜戦争で山本五十六長官(1884-1943)がいずれも海軍に籍を置きながら功績をあげたことをたたえ、「王師赤心報国此其時」と結び、「右送族孫鈴木正彦入海軍兵学校」とある。
さらに山本五十六が鈴木さんの母、於佐子さんにあてた昭和18年1月の書簡がある。於佐子さんが息子の正彦さんの海軍兵学校入校したことを書き送ったところ、「たまたま返信があったもの」で正彦さんは言い、とくに山本五十六とつながりがあったとは聞いていない。
乃木大将とも呼ばれた乃木希典(1849-1912)が宮崎少佐にあてた書簡があるが、それがなぜ鈴木家に残っていたのかはわからない。ほかにも昭和21年に虎雄が書いた額装の書、地元の文人、鈴木遜堂の画を張ったふすま、正彦さんのおじいさんにあたる宗久の画も。
また、文台が書画を描いたふすまがあって寄付したい考えだが、ふすまがはずせなかったため、どうやって寄付するかなどはこれから検討する。