鉄道ファン的視点から見る越後線の歴史、越後鉄道開業の背景と経緯
ことし8月、吉田ー白山間が100年を迎える越後線。今回は、鉄道ファン的視点から越後線の歴史を振り返ってみたい。
新潟県内で初めて鉄道が開業したのは、1886年の官営鉄道直江津線の関山−直江津間である。これは当時、政府が東京と京都・大阪・神戸を結ぶ幹線鉄道を中山道沿いに敷設しようとしていたため、その敷設工事に用いる資材を運ぶことを主としたものだった。しかし、中山道幹線鉄道計画は、当時の技術的な制約と工費の高さなどから東海道沿いに変更された。
そのため、直江津線は開業したものの主たる目的だった中山道幹線鉄道への資材運搬線としての機能を失った。それでも、直江津から延びた線路は長野県内に入り、軽井沢から碓氷峠を下り群馬県高崎に達し、現在の高崎線である日本鉄道線と接続して上野とつながった。
その後、政府は直江津線を新潟・新発田に鉄道を延ばす計画があったが、当時政府財政が困窮しており、いっこうに敷設できなかった。ちなみに、新発田は陸軍の歩兵第16連隊が駐屯しており、そこまでの鉄道は軍の意向もあった。
東京と新潟を結ぶ路線は3つのルートのうち直江津延長線を選択
直江津から新潟に延びる路線、つまり東京と新潟を結ぶ路線は、直江津延長線、長野県豊野から信濃川沿いに走る豊野線(現在の飯山線に相当)、そして三国峠を通る現在の上越線が候補に挙がり、その中で直江津延長線が選択された。
この直江津延長線は、柏崎から塚山峠を越えて信濃川を渡り長岡へ、三条、新津を経て新潟に至る計画であり、蒲原平野の信濃川西岸には鉄道が敷設されるものではなかった。政府の財政困窮から、鉄道官営を原則としながらも私設鉄道を許認可の下で認めるというなかばダブルスタンダードになっていた。
この直江津延長線についても「北越鉄道会社」という私設鉄道が敷設することになった(のちに政府が買い上げ国有化)。そこで、刈羽・三島・西蒲原の人々から我が村にも鉄道をという声が挙がった。
日本石油、北越鉄道の創設にかかわった久須美秀三郎が息子東馬とともに越後鉄道敷設に乗り出す
この動きに呼応したのが久須美秀三郎(1850−1928)である。秀三郎は旧家久須美家の27代目、柏崎県の第二大区副大区長を務めた。1882年ころから石油事業に力を注ぎ、日本石油の取締役を務め、西山油田噴油後は北越鉄道の設立にも奔走し、取締役も務めた人物である。1902年からは憲政本党の衆議院議員を務めた(当選2回)。
秀三郎が中心となって鉄道敷設運動を展開し、1908年に仮免状が下付されたが、日露戦争後の経済情勢から安田財閥の安田善次郎らの支援を受け、1911年に越後鉄道会社の設立総会が開催された。この越後鉄道に対しては、久須美家だけでなく、新発田出身の大倉財閥を成した大倉喜八郎、前島密、山口達太郎、内藤久寛、白勢春三、鍵富三作ら有力者、さらに第四銀行、六十九銀行、長岡銀行、新潟商業銀行、鍵三銀行、柏崎銀行などの経営陣、日本石油、宝田石油の役員など石油関係者が多く名を連ねた。
久須美秀三郎、それに秀三郎の子、東馬(1877−1947)は、新潟で、あるいは東京で資本家の協力を仰ぎながら、越後鉄道計画を建てたわけだが、実は当時の資本家には鉄道に投資して鉄道営業が芳しくなくても、政府が買い上げてくるという目論見もあったことは否定できない。
久須美父子にそのような目論見があったかどうか、今となっては確認できないが、単に地域発展のためというわけでもなかったのが当時の時代背景である。しかし、久須美父子は私財を投げうって北越鉄道、越後鉄道の設立に尽力したのは間違いないだろう。
越後鉄道は柏崎ー白山間を結び、吉田で分岐して弥彦、三条へと鉄道を敷設する計画で1912年開業
越後鉄道は、柏崎から白山まで、吉田で分岐して弥彦、そして三条までの間に鉄道を敷設することになった。現在の弥彦線である参宮線は、あくまでも越後一ノ宮・彌彦神社への参詣客を当て込んだものだった。
当時の鉄道は一大観光地である神社・仏閣への参詣(巡礼)客を見込んだものが多かった。江戸時代の「お伊勢参り」が鉄道に変わっただけである。
1912年、越後鉄道として最初の営業区間である白山と西蒲原郡吉田村の西吉田の間が開業した。当時の白山駅は現在の白山駅の位置にはなかった。新潟市立鏡淵小学校付近が当時の白山駅の位置である。
そして、1913年に柏崎ー白山間が開業し、1916年には参宮線・弥彦‐西吉田間、西吉田から燕へ、さらに1925年に東三条へ、越後長沢へと延びた。
この参宮線・弥彦駅にほど近い弥彦公園には久須美東馬の銅像が置かれている。これは、約4万坪の弥彦公園を東馬自ら指揮して私財を投じて造園したことからである。
経営難の越後鉄道に買収案が浮上、1927年に国有化されるも政治介入が「越後鉄道疑獄」として表面化
だが、越後鉄道は経営難に苦しみ、政治工作によってたびたび国有化を要請したが容易に実現しなかった。それでも、1927年1月に、水戸鉄道(現在の水郡線)・陸奥鉄道(現在の五能線)・苫小牧軽便鉄道・日高拓殖鉄道(現在の日高線)の4私設鉄道に加えて越後鉄道の買収案が突如、浮上した。
国有化案決定に紛糾したが国会議決を経て越後鉄道を含む5社の国有化が決定、越後鉄道は1927年10月に国有化され、国営鉄道の越後線、弥彦線となった。
ただ、この5私鉄の国有化は当初から政治的意図が指摘され、特に越後鉄道については強い政治介入が囁かれていたが、1929年に「越後鉄道疑獄」として表面化し、元文部大臣小橋一太が収賄容疑で起訴される事態となった。
国有化によって経営から離れた「越後の鉄道王」とも称される久須美父子は、邸宅「住雲園(じゅううんえん)」=長岡市小島谷=に住んでいたが、1929年にはこの屋敷を手放した。この屋敷は久須美家から購入した池田直吉氏が長岡市に寄贈、現在は一般公開されている。
国有化された越後線は、まだ白山から信濃川を渡って新潟駅(現在の新潟駅と異なる位置にあり、代々木ゼミナール新潟校辺りにあった)に乗り入れられなかった。1943年に信越線の貨物支線として関屋と新潟の間に貨物線が敷設されたが、ここに旅客列車が走るのは戦後のこと、1951年だった。
最後に付言すると、白新線の「白」は長らく越後線の終点だった白山駅の「白」である。新潟−新発田間の鉄道は、新新バイパスのように道路と異なり「新新線」ではなかった。
参考Web:
第2章 鉄道建設への動き
新潟県:【長岡】ふるさとレポート:その昔 実業家の夢の跡