物言わぬ駅舎に刻み込まれた歴史を掘り起こす
新潟県には190以上の駅がある。古い駅、新しい駅。多くの人で賑わうターミナル駅、ローカル線の無人駅。その一つ一つがそれぞれの歴史を持ち、それぞれが様々な人生の舞台となった。
物言わぬ駅舎だが、そこには多くの人が行き交った歴史が刻み込まれている。その刻みこまれた歴史をよく目を凝らして掘り起こしていきたい。
今回は今年で開業90周年を迎えた燕駅の歴史を探訪しようと思う。
燕駅は1922年(大正11年)4月20日、越後鉄道の西吉田(現:吉田)〜燕が開業した時に開設された。現在使われている駅舎は1968年(昭和43年)に建てられたものだ。駅舎は国鉄全盛期に建てられてものらしく、鉄筋コンクリートの重厚な造りとなっている。
新潟交通電車線も乗り入れていたゆとりある駅舎、1番線と2番線の間にある隙間
駅舎内に足を踏み入れると大きめの改札口、広い待合室が見える。燕駅の近年の乗車人員を考慮するとかなりゆとりを持ったものといえる。この駅舎が建てられた頃は新潟交通電車線(白山〜燕)が乗り入れており、この駅から市内の工場などへ通った人がたくさんいたのだろう。
ホームヘ出てみてもかなり余裕を持った造りであることがわかる。燕駅は1番線と2番線があるが、普段は1番線に電車が到着し、2番線はこの駅で吉田・弥彦行きと東三条行きがすれ違うときにだけ使われる。
ここで気になるのが、1番線と2番線の間にある隙間。普通は隙間なく綺麗に四本のレールが並ぶものだが明らかに隙間が広い。これは昔1番線と2番線の間に線路があったはずだ、と思い、調べてみると、思った通り1番線と2番線の間にレールがある写真が見つかった。
このように現在残された痕跡から在りし日の駅の姿を推理していくのも駅舎探訪の楽しみの一つである。
1番線の反対側にかつて使われていた引込線が見える。今は線路が1つしか残されていないが、ここにも線路とホームの間に不自然な隙間が。おそらくここにもかつて線路があり、ホームから燕の工場で作られた洋食器などを貨物列車へと運びいれていたに違いない。なお、燕駅は1984年(昭和59年)に貨物の取り扱いをやめている。
ひっそりと残る電鉄線の痕跡
燕駅の在りし日の姿といえば、かつて燕駅から新潟市の白山駅までを結んでいた新潟交通電車線、通称電鉄線。痕跡が残されているか調べてみた。
電鉄線は、現在2番線として使われているホームの反対側に3番線があり、そこから新潟へ向かう電車が発着していた。かつて駅舎があった場所は交番に、かつて線路があった場所は道路へと姿を変えていた。車庫や列車が待機していた留置線があった場所も住宅や草地になっていた。
1993年(平成5年)に電鉄潟交通電車線が廃止されてから20年近い歳月が経っているので、痕跡を見つけるのは非常に難しくなっていた。何も残されていないか、と諦めかけた時にわずかな痕跡を見つけた。その痕跡は下の写真の中に写っている。この写真は2番線ホームからかつて留置線があった場所を写したものだ。痕跡を見つけられただろうか?。
正解は、写真に写っている赤茶けた柵。この柵を真上から見てみると。
このようにレールの形をしている。新潟交通電車線が廃止となったあと、役目を終えたレールがこのように利用されていたのだ。レールは姿と役目を変え、誰の目に止まるわけでもなくひっそりと燕駅で乗り降りする人を見守っていた。
さて、この燕駅。燕というと鉄道ファンの多くがある特急列車を思い浮かべるだろう。このことに筆が向くととても長くなってしまうので、それはまた別の話ということで。
(文・藤井芳輔)