三条市名誉市民の漢学者、諸橋轍次博士が1883年(明治16)6月4日に生まれたのにちなんで三条市諸橋轍次記念館(羽賀吉昭館長)は、その前日の3日、同記念館を無料開放するとともに記念講演や紙芝居を行った。
毎年、諸橋博士の誕生日にちなんだイベントを行っており、博士の孫、諸橋達人さんを講師に記念講演、博士の生家で紙芝居「諸橋轍次博士物語」を行った。ヒメサユリからさらに奥に入った高城城址ではヒメサユリ祭りが始まったばかりで、同記念館からシャトルバスを運行していることもあり、午後3時過ぎには約450人が来館して盛況だった。
記念講演には遠くは十日町市から51人が聴講した。テーマは「祖父 諸橋轍次を語る」。講師の達人さんは、高校3年生まで博士と同居した。東京都新宿区に住み、博士の跡取りの跡取りの孫で、70歳。東京高等師範学校附属小学校入学し、1948年から1955年ころまで夏休みを庭月にある博士の生家で過ごした。同記念館はその生家を背に建つ。
東京教育大学付属中学校に入学して夏季水泳訓練で水戸藩の水府流を習った。旧制中学時代に博士が教べんをとった東京教育大学付属高校へ進み、中学、高校とサッカー部に所属し、高校では東京代表で国体、全国大会に出場、全国大会では3位になった。
慶應大を卒業して三菱重工業、三菱自動車工業と社名を変更した三菱日本重工業に勤務した。博士の親族でつくる地元庭月会の会長も務める。今は朝、夜と紀州犬の散歩。趣味は読書と軍歌。
達人さんは、博士の思い出から淡々と事実を話した。博士は洗面器に水を入れて廊下の板の間で字のけいこをした。廊下を歩きながら漢詩を口ずさんだ。家ではほとんど着物で過ごし、正座して食事した。
博士の最大の功績といえる『大漢和辞典』の編さんに当たったとくに4人の弟子を達人さんは、源頼光の四天王になぞらえて「諸橋四天王」と呼んだ。博士は量は少ないが毎晩、酒を飲んだ。甘い物が好きで、達人の妻が彼岸におはぎを持っていくときは、朝から何も食べずに待っていた。
達人さんをはじめ、3人の孫に西遊記、里見八犬伝、川中島の合戦などを話して聞かせてくれた。西遊記の話が進むと家族を西遊記の登場人物になぞらえ、もちろん博士が三蔵法師。孫はいちばん上の達人さんが孫悟空、弟が猪八戒、三番目が沙悟浄に。「大漢和辞典」の編纂所「遠人村舎(えんじんそんしゃ)」に住んでいた男性を金角大王、銀角大王と名付けた。同記念館に三蔵法師一行が天竺を目指す像が建つことに「感無量の思い」(達人さん)。
博士の歌で唯一、覚えているのは唱歌『青葉茂れる桜井の』で、達人さんは一節、歌ってみせた。ある先生が「大は小を兼ねる」と言ったら、博士は「しゃもじで耳がかけますか?、長持、枕になりますか?」と先生を問い詰めてやり込めた話を聞かせてくれたこともある。
目が悪く、ほとんど視力を失なったときは、白い杖をつき、駅で転ばないように各駅の階段の数を記憶した。その後、手術で片方の目の視力を回復した。
青山学院大学で女学生に漢文を教えていたとき、生徒にあてるときの順番が生徒にもわからない法則で名指しした。答えは洋服の色で、赤い服の女性にあてるというユーモアもあった。
達人さんが東京教育大学付属高校で風邪をひいて何日か休んだとき、担任に博士から「鬼の霍乱(かくらん)である」と博士に書いてもらうよう言われた。自分が書いて先生に渡したら、その字をおじいさんに書いてほしいと言われ、後日、博士に書いてもらった。
博士にしかられた記憶はない。食器類をていねいに用心深く扱うよう言われたくらいだった。
博士は毎年、庭月に行くのを楽しみにしており、庭月に「行く」のではなく、「帰る」と言った。達人さんは小学校1年だった1948年(昭和23)から毎年、夏休みを庭月で過ごした。
当時は新幹線がなく上野駅から上越線で東三条駅まで5時間か7時間かかかった。夏休みだから暑く、車内に冷房は効いてない。窓を開け放し、途中、どこかの駅で「アイスクリーン」を買って食べた。
東三条駅からはバス。かなり八木よりの停留所だっったが、運転手に頼んで玄関の前で止めてもらったことも何度かある。
生家の裏に井戸があり、親せき何人かと生活してて井戸の水を飲んでいた。沸かして湯冷ましたまずい水を飲んだ。湯沸かしせずに飲んだらすぐに下痢をした。一回下痢をして慣れるとその後は、もう大丈夫だった。
八木の橋の向こうに非常に冷たい清水がわいてた。祖父は毎朝、早く起きて散歩がてらにその清水を飲みに行った。達人さんも何度か一緒に行ってその清水を飲んだ。散歩には快適だった。
早川さんのウチを上のウチと言ってたが、そこにも清水があり、野菜やスイカが冷やしてあった。生家からそこに行くには三つの道がある。遠いけど安全なのがバス通り。次が記念館の裏を通って畑を通る道。いちばん早いのは生家の下を下り、がけを下り、田んぼの横を通る道だった。
慣れるとだんだん最短の道を使うようになり、カエルが足に飛びついたり近くをヘビが這っていてびっくりさせられた。タマゴを持って歩いていたときに、ヘビにタマゴを取られるんじゃないかと思って大きな声を上げ、近くで畑仕事をしてた人が駆けつけてくれたこともある。
通称、屋号で家を呼ぶことが多かった。荒沢の「海軍さん」の家は戦時中に海軍の軍人だったと聞いた。
生家からバス通りに出る途中に小さな川があった。そこで釣りをしたことがある。庭月に初めて来たとき、最初は底の色と一緒になって魚が見えなかったが、しばくすると慣れて見えるようになった。雨で川の水が濁ると良く釣れると聞いた。
昼飯を食べて少し休むと子どもたちは六尺ふんどしをしめて風呂の水くみをした。いちばん最初に風呂に入るのは博士。こどもたちは水中めがやヤスを持って五十嵐川へ。それから数時間が子どもたちにとっていちばん楽しい時間だった。
浅瀬でカジカを突く。そっと石を持ち上げると川底にカジカが張り付いている。最初は突けなかったが、慣れると百発百中に。石を上げてカジカがいるかいないかにわくわくした。
川が蛇行して流れが緩やかになったところが格好の水泳場所。飛び込んでもなかなか底につかない。川の主が住んでるかと思うような場所だった。小学校は犬かきで泳げたが、水戸藩の水府流という泳法で泳げるようになった。今は学校の生徒はプールでしか泳げないようになったと聞き、「非常にかわいそうなことだなと」。
夕方になるとヒグラシが鳴き始め、大きなオニヤンマがぐるぐると飛ぶ。やっかいだったのはブト。関東ではブヨという。雨上がりに発生し、しょっちゅう刺された。最初は赤くはれて、痛んだ。地元でではブトに負けるという言い方をした。
博士は二階の座敷で時々、漢詩をつくり、友だちに送っていた。盆の2,3日前になると子どもたちが総出で墓参りへ。草を取り、水をまく。今から60年前の話でまさに隔世の感がある。今から三十数年前に博士を頂点に一族が集まる庭月会が発足し、毎夏、開催されている。
講演後、達人さんは生家へ足を運び、生家の周辺で遊んだ思い出などを羽賀館長と懐かしく話していた。