7月29日午後0時半から長岡市・東泉閣で日本美術刀剣保存協会長岡支部の例会が開かれ、のちに靖国神社と改名する東京招魂社に納めるご神体の御鏡(みかがみ)と御剣(みつるぎ)を作った三条出身の名工、栗原信秀(1815-80)の名刀の展示と解説が行われる。今回は会員外も参加できるので、解説を担当することになった愛刀家、外栄金物(株)会長外山登さん(74)=三条市本町6=は、会員に限らず興味のある人に参加を呼びかけている。
例会は年に数回開き、長岡支部会員の愛刀家約30人のうち、20人前後が出席。うち2回は中央から愛刀家を招いて所有する名刀を解説、鑑定会を開いている。
外山さんは昨年の例会でも会津藩の刀工、十一代兼定(1837-1903)の解説を行っている。十一代兼定は会津藩が官軍に敗れると加茂の資産家に招かれて加茂で刀を打っていたこともあり、新撰組の土方歳三の愛刀を打ったことでも知られる。
今回はそれに続いての解説。信秀の刀約20点も展示される。参加は会員であるなしにかかわらず3,000円の会費が必要で直接、会場へ出向く。会員外でも参加できるとはいえ、刀の鑑賞の経験がある人に限る。
外山さんは36歳のころに日本刀と出会った。刀ブローカーと付き合いがあった義兄に刀を見せられ、脇差しを1本買ったの愛刀家としての始まりだ。すると今度はそれがほんものかにせものか知りたくなり、どんどん日本刀に魅せられていった。結局、その脇差しは偽物とわかり、処分してしまった。
刀を知るには何でもいいから刀を一本、研ぎ師に出せと言われた。仕上がりを催促しながら遊びに行くといろいろな刀を見せてくれるという寸法だ。そうこうするうちに信秀と出会い、地元出身の信秀にほれた。
外山さんは、信秀に関する「正しい伝承が三条市にない」と知った。地元で誰もが見ることのできる信秀の偉業の証しは、信秀を記念して地元商工業者の寄付により昭和10年(1935)に三条の八幡宮境内に建立された刀をかたどった石碑くらい。「悲嘆に暮れて短刀をのどに刺して自殺した」と伝わっているが、のちに靖国神社にご神体を納めた人間が自殺するはずはないと、外山さんは研究を始めた。
信秀は旧月潟村に生まれ、父が早くして死んだため、間もなく、母は三男一女を連れて三条の旧四の町土手の太物商今井氏と再婚した。信秀は長男で、妻は有名な仏壇師の娘だったという。30歳を過ぎて当時、四谷正宗の異名を取る江戸の名刀工、源清麿(1813-55)に弟子入り。信秀は自作の刀身に自分で彫りをする「自身彫り」で有名になった。
明治維新政府は明治2年(1869)に官軍の戦死者の霊を祭る招魂社を建立。ご神体の御鏡と御剣を信秀につくらせた。外山さんは、時の政府が、信秀こそ国策の神社のご神体をつくるにふさわしい刀工と認めた、日本一の刀工であることを証明したと考える。招魂社は、明治12年(1879)に靖国神社と改名した。
天皇の拝刀を制作したり、数々の名誉ある仕事をこなして明治7年(1874)に三条へ錦を飾る。三条でも皆川家の鉄鏡、新発田白勢家の剣、三条八幡宮の御鏡、弥彦神社などでたくさんの名品を製作した。
信秀の自殺説は、不名誉だからその事実が隠されていたとも言われたが、師匠の清麿の自殺は公になっている。外山さんは東京へも足を運んで取材して信秀の死に至る経緯を突き止めた。弥彦参りでめがねをなくし、明治12年(1879)の秋にめがね買いに行くと言って東京へ旅立ち、そのまま帰らずに明治13年(1880)年2月、娘婿の家でがんのため66歳で死んだ。墓は上野の忠綱寺にある。
数々の名刀を収集し、鑑賞してきた外山さん。日本刀の良し悪しは「一目でわかる」と言う。日本刀は角度を変え、光の当て方を変えて見ることでさまざまな表情が見えるという。
なかでも外山さんがひかれるのは、日本刀に使われる砂鉄を溶かした鋼、玉鋼だ。外山さんは仕事柄、刃物も扱うこともあって素材には一家言ある。外山さんに言わせれば「清麿一派は玉鋼の鍛え方が違う。鋼が違うんですよ」。
欧米は地表に近いところに鉄鉱石があったが、日本では砂鉄を集め、「たたら」と呼ぶ大型のふいごで製鉄。わずかしか取れない鋼を有効に使うためにも鉄に鋼付けという技術が磨かれた。
これらの技術に関して外山さんはさまざまな著作物に寄稿し、三条商工会議所が作成した産地をPRするDVD「熾盛(しせい)の国」にも出演して話している。
日本刀の魅力について外山さんは「日本人の魂の宿るみたいなところがあるんじゃいかな」。一方で玉鋼をはじめ惜しみなく注ぎ込まれた技に「独特の製鉄法と日本の文化が日本刀に凝縮されている」と話している。