ことし4月25日、弥彦線の吉田ー燕間は開業90周年を迎えた。前回は、越後一宮・彌彦(いやひこ)神社への「聖地巡礼」的意味合いから開業していった参宮線、現在の弥彦線の黎明期を振り返った。今回は、吉田から弥彦へ、吉田から燕へ延びていった現在の弥彦線を信越本線に接続させる過程を振り返ってみたい。
信越本線への接続駅をどこにするかで議論
1918年(大正7年)に越後鐵道株式会社は現在の吉田から東三条までに参宮線として鉄道を敷設する免許を得た。これを受けて、南蒲原郡役所があった三条町を中心に信越本線への接続駅をどこにするかで議論が沸き起こった。
当時の南蒲原郡三条町は、現在の本町、元町、八幡町、神明町、林町、仲之町、一ノ門、東三条が町域で、裏館より北側は裏館村、栗林村、大崎村、井栗村、五十嵐川より南側は本成寺村、信濃川を渡って大島村があった。三条町は裏館村と1920年に合併するが、さらに本成寺村の四日町・西本成寺との合併問題も抱えていた。
燕駅から信越本線への接続は一ノ木戸駅か三條駅かで綱引き
1919年(大正8年)7月、当時の三条町会(議会)でも、参宮線の問題が取り上げられた。その問題は前述の信越本線との接続地点の問題である。つまり、現在の三条駅で接続するか、東三条駅(当時の一ノ木戸駅)で接続するかという問題である。この町会で、裏館村と合併した「大三条」を築くために裏館村側を通って一ノ木戸駅で接続する意見と、嵐南の四日町や西本成寺との合併問題があるから嵐北にこだわるものではないとの意見が出て、結局この町会では結論を得られなかった。
参宮線を、燕駅から三条駅に延ばすのか、一ノ木戸駅に延ばすか。一ノ木戸駅に延ばすのであれば、燕駅からほぼ最短距離で結ばれる。現在の弥彦線である。一方、詳細な資料がなく予想するしかないが、三条駅に延ばすのであれば燕駅からの距離は延びる。当時の市街地は三条町と燕町くらいで、周辺の村々は田畑が広がる平野だったことは容易に想像しやすい。三条の市街地を避けて三条駅に延ばす策も十分に取り得る策だった。だからこそ、三条駅と一ノ木戸駅で、どちらに参宮線を乗り入れさせるか。近隣の町村まで巻き込んだ利害対立を生んだことは否めないだろう。
三条市立図書館だけに所蔵されている1919年(大正8年)の「越後鐵道支線延長ニ関スル意見書」では、信越本線の三条駅と一ノ木戸駅、どちらに参宮線を乗り入れさせるか、それぞれの利点と欠点が要約されている。その要約をさらに要約すると、以下のようにまとめられる。
三條駅案と一ノ木戸駅案のそれぞれ利点と欠点
1. 三条駅案
2. 一ノ木戸駅案
この意見書では、一ノ木戸駅案の利点に、「会津地方」が入っており、八十里越を越えた福島県側への延伸も当時の考えにあったことがうかがえる。
この意見書がどのような影響を及ぼしたかは定かではないが、一ノ木戸駅案の利点が多く列挙されていること、反対に三条駅案の欠点がそれに準じて列挙されていることから、ある程度、一ノ木戸駅案を念頭にした意見書の可能性も否定できない。
一ノ木戸駅を乗り入れ先に決定、三条町会は今より北の第一産業道路付近のルートを議決するも、「大都市の停車場は市街地中央にある」と今の位置に
1919年12月、越後鐵道株式會社は「一ノ木戸駅」を乗り入れ先に決定した。三条町会が越後鐵道の決定に対してどのような反応を示したかは、詳らかな史料は残されていない。
しかし、三条町会は翌年、三条町内の停車場(駅)をどこに設置するのかを議論したと記録が残されている。このときは、現在の東裏館1丁目の定明寺(みのり幼稚園)北側、現在の第一産業道路付近と推測される位置に設置するよう越後鐵道に求めることを議決した。だが、越後鐵道は燕ー一ノ木戸間の着工前に、停車場予定地を現在の北三条駅の位置である南蒲原郡役所(現在の市立中央公民館)北側を三条町側に示した。これを受けて三条町会は再度協議し、その位置では三条と裏館を分断するとの意見が出されたものの、「大都市の停車場は市街地中央にある」として、郡役所北側の位置に建設されることとなった。
三条町だけでなく、周辺の町村をも巻き込んだ形となった参宮線は、1925年(大正14年)4月10日に燕ー一ノ木戸間が開業し、同時に北三条駅も開設された。なお、一ノ木戸駅は、参宮線開業の翌年8月15日に「東三条」駅と改称した。また、越後鐵道株式會社は1927年(昭和2年)7月、東三条から下田郷に入り越後長沢までの間7.9kmを開業させ、10月1日に現在の越後線とともに自社線を政府に売却し、両路線は国有化され、参宮線は「鐵道省の弥彦線」となった。
越後鐵道株式會社の末期、ちょうど年号が大正から昭和に変わる時期の動き、特に下田郷への路線延伸については、いずれ書き起こすことにしたい。
(藤井大輔)