参列者数に誤りがお詫びして訂正します。
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24日に68歳で急逝した日本金属洋食器工業組合理事長で洋食器メーカー(株)アサヒ=燕市朝日町=社長の田中正勝さんの通夜が26日夜、三条市・ビップシティホール県央で行われ、800人余りが参列して突然の早過ぎる死を悼み、別れを告げた。
鈴木力燕市長は弔辞で、1カ月足らず前の8月28日に行われた日本金属洋食器工業組合主催のローカル検定、第2回カトラリー検定実施の記者会見で席を並べ、「わたくしがソムリエ・クラスの受検申込書に記入している隣りで、あなたはいつも通りのほほえみを浮かべていらっしゃいました」と振り返った。
消費者ニーズに対応した先進的事業を展開し、日本金属洋食器工業組合で要職に就いたことを紹介。新分野への進出、国内市場の開拓、海外の市場調査などを積極的に推進し、「洋食器業界にとどまらず、燕産地全体の活性化に大きな足跡を残されました」とたたえた。
その功績や高いリーダーシップ、抜群の行動力は「いつまでもわたしたちの心に刻まれ続けるものと確信」。とりわけ印象深いのは、昨年の金属洋食器製造100周年記念事業に一緒に取り組んだことで、「燕市の産業の代名詞とも言える金属洋食器の歴史と現在、そして未来を積極的にアピールすることができたのは、田中さんなくして成し遂げることはできなかった」と感謝した。
「産業のまち燕市を広く世界に発信し、新たな飛躍に向け、まい進していこうという矢先にあなたという存在を失うことは燕市の産業界にとって大きな痛手であり、わたしは残念で、残念で、残念でなりません」と声を詰まらせて悔やんだ。
「あなたが残してくださった多くのご功績を礎に、この志を大切に受け止めながら、わたくしは引き続き子どもたちが夢と誇りをもてる日本一輝いているまち燕市を目指し、産業の振興と地域の活性化に全力を尽くしていくことを慎んでここにお誓い申し上げます」と述べた。
続いて日本金属洋食器工業組合の元理事長、(株)青芳製作所=燕市小池=の青柳芳郎会長が弔辞。「今、このような場所で、あなたの前で、なんでわたくしが、つらい、悲しい、哀切、別離、別れの言葉を述べねばならないのか。何もかも話は逆です。いつかは、わたくしがあなたの言葉を聞くはずだったのに」。
訃報を聞き、すぐに自宅へ行ったが、ただただほおをぬらし、祈るだけだった。昔から盛者必衰は世の習いと承知していたが、「あまりにも厳しい現実に頭の中が真っ白になりました」。
日本金属洋食器工業組合の理事長に指名されたのは円高、グローバル化で産業構造の改革を迫られたときで、田中さんに副理事長就任を頼み、大きな力をもらい、「内外の厳しい情勢をなんとか乗り越えることができ、本当にありがとうございました」と感謝した。
山崎悦次理事長の時代に、語ろ合わせで7月12日を「ナイフの日」と制定した普及活動に副理事長として尽力。山崎理事長が燕商工会議所会頭に就任すると、代わって組合の理事長に就いた。2007年には組合の設立50周年記念式典を開催。09年のトキめき新潟国体では記念メダル、バッジの製造で燕産地の加工技術のすばらしさを全国にPRした。
昨年は金属洋食器製造100周年記念事業に取り組み、ことしもそれに続く第2回のカトラリー検定の準備を進めている最中だった。中国とは政治的緊張があるなか、この訃報に接して中国からも数通の弔電が届いた。中国からの研修生の受け入れにも積極的で、今は第20回生の研修生を受け入れ、日中の企業、教育、友好親善に多大な功績を残した。
「あなたは洋食器を愛し、常に業界に新たな勇気と元気、頑張りを鼓舞し、大きな、大きな功績を残し、旅立たれました。わたしたちはこの偉大な指導者を失い、残念の極みであります。残されたわたくしたちは、あなたの100年記念式典のときの遺訓、これから先の100年への事業の継続を願う努力を重ねることを誓います。最後にお別れに当たり、田中理事長さん、本当にご苦労さまでありました。ありがとうございます。感謝と惜別の言葉とさせていただき、ご冥福を祈ります。さようなら。合掌」と声を震わせた。
燕ライオンズクラブのメンバーだったので、祭壇のわきにはライオンズ旗が掲げられた。田中さんは同世代の親しい人たちの間でもひときわ若々しく、元気な姿を見せていただけに、ひつぎの中で安らかに眠る田中さんに別れを告げてもなお信じられないようなようすだった。27日午前10時から同所で葬儀式、午前11時15分に出棺となる。