燕市景観作物推進協議会主催で30日、燕市吉田新保地区の吉田ふれあい広場西側の田んぼをカンバスに稲穂で描かれた田んぼアートの稲刈りが行われ、約350人が参加して収穫の秋を稲刈りで体感した。
毎年恒例の田んぼアートで、ことしで6年目。色の違う稲穂を植えて田んぼにデザインを描くもので、ことしは5月に古代米や観賞用4種類のコメを使って昇り龍のイラストと「伸びゆくつばめ」の字句をデザインし、この日の収穫を迎えた。
地元の人たちのほか、29、30日と行われた燕・福島再会交流事業で来燕した、かつて燕市内に避難していて南相馬市に戻った25人と当時の地元ボランティア40人、さらに町田市・燕市交流事業「農業体験ツアー in つばめ パートIII」で町田市から訪れた小学生親子19人を含め、約350人が参加した。
頭を垂れるほど実った稲穂をかまを使って手で刈った。半分は機械で収穫の計画だったが、人海戦術で思いのほかはかどり、機械の出番は40アールの田んぼの3分の1もなかった。
吉田北小学校1年生の八木のどかちゃん=燕市富永=は、額に大粒の汗を浮かべ、かまでイネをザクッと切る音も軽やかに、黙々と稲刈に熱中していた。お母さんも「子どもが行きたい」と言うので参加したが、「やったことがないので楽しい」と母娘で一緒に力を合わせてかつての“重労働”を楽しんだ。
神奈川県横浜市出身で福島県南相馬市鹿島区に嫁いだ鹿野サカヱさん(65)は燕・福島再会交流事業で参加した。燕・福島再会交流事業はほかに前夜に宴会、この稲刈りのあとはふれあいパーク「てまりの湯」で交流会を開いた。
「覚えてるもんだねぇ。思い出すもん」と鹿野さんは稲刈りの手を休めてにこにこ。稲刈りをしている間に体が勝手に昔取った杵柄を思い出す。25歳で結婚するまで過ごした横浜は当時、田んぼがいっぱいあり、農家だったので中学、高校と農作業を手伝った思い出がよみがえった。
燕市に避難していたのは2カ月くらいの間だった。東日本大震災から1年半以上たったが、町は「落ち着いたと言えばそうだけど、みんなばらばらになって。何年たったら元のように戻れるのか…」とこぼした。ことし4月の燕・福島再会交流事業にも参加し、分水おいらん道中も見学した。家にいると先が見えない心配ばかりが浮かぶ。「気分が晴れます。一瞬でもいい、心配を忘れられるのがありがたい」と話していた。
町田市の渡辺泰子さん(47)は、市の広報紙を見て町田市・燕市交流事業「農業体験ツアー in つばめ パートIII」を知り、参加した。ツアーでは燕市内でナシ狩りや洋食器の磨き体験、市内めぐりなどを行った。
渡辺さんは、夫と小学校3年生の長男と3人で参加した。亡くなった父が長岡市与板の出身。新潟は何度も訪れており、親近感がある。新潟にはおじさんの田んぼもあるが、農作業は「まったく経験がありません。やっとけば良かったと思います」、「稲刈りは想像以上に楽しくて良かったです。子どもにもいい体験になりました」と喜んだ。一方、燕市での食事は「おいし過ぎて食べ過ぎました」と笑い、収穫した古代米の変わった色の稲穂には「リース用にとか東京で売れると思いますよ」と話していた。