今回の「鐵道双見」は舞台を新潟県央から離れて140年前の鉄道開業に
明治5年(1872)9月12日。この日は日本の鉄道が正式に開業した日である。当時は天保暦(太陰太陽暦)だったので、現在の太陽暦にすると、明治5年10月14日となる。そこで、1922年に「鉄道記念日」、1994年からは「鉄道の日」と呼ばれている。ことしで鉄道が開業して140年になる。この日、明治天皇が臨席して、新橋駅と横浜駅で開業式典が挙行され、明治天皇が御召列車で行幸した。
これよりも先、5月7日(現在の暦では6月12日)に品川−横浜間で仮開業しており、この日がいよいよ本格的に鉄道が開業した日といえる。ちなみに、開業当時の新橋駅は現在の新橋駅ではなく既に廃止され再開発された汐留シオサイト、横浜駅は現在の桜木町駅である。
久々となった「鐵道双見」、今回は舞台を新潟県央から離れ、140年前の鉄道開業にふれてみたい。
明治5年に新橋−横浜駅間で日本初の鉄道が開業、開業当時の両駅の痕跡を訪ねる
140年前、まさに日本は開国から幕末の動乱、戊辰戦争を経て富国強兵・殖産興業を柱とした明治政府が近代化を推し進めていた。鉄道も近代化の象徴のひとつだった。明治初年から鉄道敷設が議論され、東京と京都を結ぶ東西幹線鉄道と、東京−横浜間などの支線を建設することとした。この東京−横浜間の支線として開業したのが、わが国最初の鉄道ということになる。
新橋−横浜間の鉄道は、当時の東京湾岸沿いに盛り土などして建設された。今や、新橋−横浜間では海を眺めることはできないが、当時は見たこともない「陸蒸気」(おかじょうき)への不安もあってか、湾岸沿いに建設された。当時の様子を描く錦絵には盛り土の様子も描かれている。
鉄道開業の140年後の今日、筆者は新橋駅と横浜駅のあった場所を訪ねた。
新橋駅跡はビル街になり復元された旧新橋停車場が建つ
新橋駅があったところは、汐留貨物駅となって貨物駅の廃止後、汐留シオサイトとして電通や日本テレビのビルが立ち並ぶビル街に変貌していた。そのビル街にひっそりと「旧新橋停車場」が建っている。この建物は関東大震災で焼失した旧新橋停車場を復元したもので、発掘調査から当時の正面玄関の階段やプラットホームの基礎石が発見され、当時の資料から忠実に再現したものだ。ゼロマイルポストと当時のレールである双頭レールも部分的に復元されていて、当時の駅の様子をよく知ることができる。
今は大宮の鉄道博物館で展示されている国の重要文化財「1号機関車」がマッチ箱のような客車を牽いていたことを夢想すると、文明開化に彩られた明治の東京をイメージすることができよう。
現在の新橋駅から東海道線と根岸線を乗り継ぎ、桜木町駅へ。開業当時は53分かかったこの区間、現在では普通電車でも30分ほどである。当時の非力な蒸気機関車牽引の「汽車」車と現代の電車とを比較するのに無理があるか……。
桜木町駅はみなとみらい地区、横浜ランドマークタワーやクイーンズスクエア、帆船日本丸など、「ヨコハマ」を代表する街の玄関口である。正直なところ、明治の開業時の面影を探す方が無理である。これも「140年の歴史の重みがあるからこそ」といえば、そうであろう。
横浜駅の痕跡は「鉄道発祥の地記念碑」と「開業当時の横浜駅長室跡」とある小さな石標
横浜側の日本で初めての鉄道が開業した記録は、桜木町駅からほど近いところに建っている「鉄道発祥の地記念碑」くらいしかない。この記念碑は横浜の方々が建てたという。いかに、地元の方々が鉄道発祥を誇りに思っていることか窺える。しかし、この記念碑を訪れる人は皆無で、街の喧騒の中にひっそりと建っている。
そして、野毛ちかみち(地下道)の入口には当時の横浜駅駅長室のあった位置を示す「開業当時の横浜駅長室跡」とある石標が外壁に張り付けられている。これを探し出すのは至難の業と言うほど、遠目にはインターホンのようにも見える小さな石標である。
みなとみらいに遊びに来た人たちにとって、桜木町駅は特別な駅ではなく、街の玄関口にしか過ぎない。けれど、駅にはそれぞれ歴史がある。車窓から見える風景にも歴史があり、変貌もある。
三条に初めて「汽車」が動いたのは、このわが国初の鉄道開業から25年後、1897年(明治30年)11月のことである。なお、明治5年の三条では現在の市立三条小学校が創立された。まだ五十嵐川には一本の橋もない時代である。
(藤井大輔)