燕市は23日、粟生津公民館で講演会「鈴木虎雄博士、知られざる驚愕の偉人力」を開き、約120人が参加して地元粟生津にあった幕末の私塾「長善館」に育ち、ことしで没後50年を迎えた鈴木虎雄博士(1878-1963)の偉業について佛教大学大学院中国文学科・文学修士の佐藤海山さん=三条市=に聴いた。
鈴木博士は旧吉田町の前身、西蒲原郡粟生津村の出身。父は長善館二代館主鈴木てき軒で、その五男。幼少期は長善館に学び、日本での中国文学、文化研究の創始者のひとりで、東洋学での京都学派の発足にも寄与した。日本新聞社勤務、東京高等師範学校の講師などを経て1908年に当時、新設されたばかりの京都帝国大学文科大学助教授に就き、1938年には名誉教授に就任。1961年に文化勲章を受章している。
佐藤海山さんは三条市下田に生まれた諸橋轍次博士(1883-1982)の研究で知られるが、諸橋博士を研究するうえでは必然的に同世代の漢学者だった鈴木博士も研究。講演の冒頭、両博士が帰省するたびにい三条市の岩田眼科で顔を合わせ、口から泡を飛ばすほどの勢いで語り合っていたというエピソードを伝え聞いたことを紹介。諸橋轍次記念館と長善館史料館で撮影したさまざまな資料を撮影した写真を映しながら話した。
「幕末から昭和まで新潟は日本漢学会のトップクラスだった」と佐藤さん。鈴木博士と長善館で父てき軒に学んだ今の三条市出身の小柳司気太(1870-1940)、新潟市出身の桂湖村(1868-1938)、東京時代の俳人・正岡子規(1867-1902)、政治評論家・陸羯南(1857-1907)との関係、台湾と中国への留学前後の中国の学者との交流、そして鈴木博士が中国、朝鮮に与えた影響などについて話した。
佐藤さんは、鈴木博士は55歳だった昭和8年、諸橋博士も55歳だった昭和12年、小柳は70歳だった昭和15年にそれぞれ天皇にご進講を行ってそれぞれの業績を説明していることを紹介。この狭い地域で10年以内に天皇にご進講した人が3人もいることに「すごいでしょ。このうちのふたりが長善館がらみです。諸橋轍次は奇跡ですけどね」とその価値を強調した。
明治維新前後に欧米から日本、さらに中国へと思想などが伝達された。日本語を中国語で読めるようにする速成法「和文漢読法」で亡国状態の中国を救おうとした中国の政治家・梁啓超(1873-1929)と鈴木博士の交友関係を明らかにすることで東アジアにおける鈴木博士の真の功績が深みと輝きを増すと、佐藤さんは壮大な歴史のロマンを感じさせるまとめを披露した。
会場は地元粟生津地区の人を中心に120人でいっぱい。途中で席を立つ人もほとんどなく、熱心に聴講していた。