15日、ロシアのウラル地方に隕石が落下し、世界をあっと驚かせた。NASAの推定では隕石は重さ約1万トン、直径約17メートルで、広島型原爆の約30倍相当のエネルギーが放出されたという。至る所に監視カメラが設置されている昨今。隕石落下のようすが動画として数多く記録され、普及が進む車載カメラの映像も目立った。
ニュースを見ていると突っ込みどころが多くておもしろかった。隕石が弧を描いて落下しているのがわかるというナレーションがあったが、映っている動画の映像は魚眼レンズ。直線でも曲がって映るので、その映像で弧を描いたかどうかを判断するのは困難だ。こういうときに決まって登場する専門家も、翌16日に地球に最接近した小惑星の一部という人もいれば、映像から太陽のある方角を確認して、それを元に隕石が飛んで来た方向から判断すると小惑星の一部ではないと断言する人も。
いずれしろ光を放ちながら途中でまばゆい閃光(せんこう)を放って爆発。すさまじい爆発音が記録されている動画もあった。あとには青空に太い白煙が残る映像は、まるでSF映画のワンシーンを見るようで、息をのんだ。これだけ科学の発達した現代でも、今回の大きさくらいの隕石は事前に発見、落下を予知できないという。ある意味、たった今、隕石が降ってきて当たって死んだとしても、天文学的には運が悪かったというていどのことなのだろう。もちろん、天文学的な可能性の低さだろうが。
旧吉田町では常識だっただろうが、三条市となると知らない人も多いので、せっかくの機会なので紹介しよう。今からさかのぼること176年前の天保8年(1837)7月14日午後4時ころ、弥彦山と国上山の間から旧吉田町の富永の田んぼに隕石が落ちた。これが「米納津隕石」。重量31.65kgで全国で3番目に大きい隕石で、石質隕石では全国2番目の大きさという。
落下のときは田んぼの草取りの真っ最中で、隕石の落下で稲は約1坪が赤く焼け、水柱が約2.5mも上がった。“決死隊”という名のもとに村人が掘り下げると、地下6尺(約1.8めm)の深さに隕石があった。明治32年(1899)の帝国博物館の勧めで東京へ出品され、その年のフランスの大博覧会に日本の代表品として出品された。今は実物は東京の国立科学博物館にあり、複製した模型が燕市長善館史料館に展示されている。落下地点付近には記念碑があり、昨年、誕生した燕市のご当地かるた「つばめっ子かるた」にも「米納津の 隕石からの 贈りもの」と読まれている。
そう言えば三条市は、明治20年(1887)に大崎山で日本で最初の科学的観測に成功したことを記念する観測日食碑が建っている。燕三条に足を運ぶ天文ファンは、ぜひ両市の天文的な記念碑や資料の見学に足を運んでほしい。と勧められるほど、天文ファンにとって価値があるものかどうかを知るほどの知識はない。