燕市被災者サポートセンターは11日、吉田産業会館で第10回交流会「3.11の集い」を開き、15人が参加して福島の郷土料理を調理して味わい、地震発生の午後2時46分に犠牲者に黙とうを捧げた。
燕市内には今も福島県などから借上げ住宅制度を利用して134人が避難生活を送っている。この日はうち15人が参加。調理室で一緒に福島の郷土料理を調理して昼ご飯で味わった。
福島の郷土料理は、ホッキ貝を使ったほっきご飯、すいとん汁、イカとニンジンを味付けしたいかにんじん。加えて新潟の郷土料理、のっぺいと白和え。福島の人なら誰もが懐かしい味に舌鼓を打ちながら、それぞれの近況の話に花を咲かせた。
燕市内に避難している人たちの交流会は、この日でちょうど10回目。参加者の顔ぶれは大体、決まっているが、今回は初めての参加も2人あり、それぞれ自己紹介。そして大震災のあった午後2時46分、政府主催の追悼式のテレビ中継を見ながら1分間の黙とうをささげた。子どもたちもいつもとは違う雰囲気を感じとり、見よう見まねで手を合わせていた。
燕市内の避難者は、半数以上を自主避難が占め、強制避難の方が少なくなっている。問題のひとつが住宅だ。東日本大震災に伴って避難者に提供する借上げ住宅の制度が、ことし3月までから来年3月までに延長された。数年単位ならともかく、1年の短い間隔で延長が決まるようでは、将来設計を立てるのも難しい。
福島県南相馬市原町区から子ども2人と避難している遠藤洋子さん(38)は、放射線の子どもへの影響を心配する。車に乗ったまま津波にのまれ、車内に水が流れ込んだ。死を覚悟した。「朝、子どもを学校へ送り出したときのことを思い出していました」。
大震災発生から4日目の14日に身寄りをたずねて燕市へ避難した。吉田地区の借上げ住宅で暮らす。夫は福島へ戻って働き、自身は一昨年10月から1年間、燕市被災者サポートセンターの臨時職員に就き、今は以前の職場の中古車販売会社の事務作業を在宅勤務のような形で行っている。
2月25日に栃木県で震度5強を観測した地震で、携帯電話の緊急地震速報が鳴った。体が震え、心臓の鼓動が速くなり、めまい、息切れがした。「固まってしまって全然、動けませんでした」。その夜は一睡もできなかっった。
あの日から見るだけで気分が悪くなっていた海も今は見られるようになったが、海の近くにいる間、避難経路の確認が頭を離れないと苦笑いする。
「子どもたちは、いつ福島へ帰るんだろうと思っているんじゃないかと思います」。今春、長男は中学校1年生、次男は小学校5年生になる。福島の家は流されたが、やはり福島へ戻りたい。一方で、子どもへの放射線の影響は消えない。次男が中学生になるタイミングで「2年後に福島へ戻るかどうか考えようと思います」。