10日から26日まで「捧武写真展〜電鉄のある風景」が開かれている燕市産業史料館を12日、秋山庄太郎写真芸術館=東京都港区南青山4=の上野正人館長が訪れ、展示作品を鑑賞した。
新潟市新津美術館で開かれた写真展「写真家 秋山庄太郎 −女優 花 plus−」がこの日が最終日。翌13日の作品の片付けを前に来県したのにあわせて長男と2人で同史料館を訪れた。
同史料館が今回の企画展で展示する作品を撮影したのは、本県を代表する燕市のアマチュア写真家だった捧武さん(1933-2010)。1982年の二科会写真部新潟支部発足の時に写真界の巨匠、秋山庄太郎さん(1920-2003)と知り合い、親交を深めた。
秋山さんは母が新潟出身。年に7、8回、来県するたびに捧さんも同行。捧さんが燕市内で個展を開くと秋山さんが会場は足を運んでくれ、捧さんが出版した写真集『かやぶきと生きる』では秋山さんが監修し、題字の揮毫(きごう)も引き受けてくれた。
捧さんは師と仰いだ秋山さんが亡くなって2年後の2005年、自身が秋山さんを撮影した写真集『秋山庄太郎と新潟』を出版。さらに2年後の2007年に秋山庄太郎写真芸術館が開館。秋山さんの娘婿の上野館長とも親しくなった。
今回の企画展では、捧さんが新潟交通電車線を撮ったモノクロ写真を展示しており、あわせて秋山庄太郎さん撮影のモノクロ写真2点も展示している。
展示作品を鑑賞した上野館長は、運や付きも味方にした作品に「秋山が残した“アマチュア恐るべし”っていう有名な言葉あるんだけども、捧さんのために残したようなもんですよね」と絶賛。いつも捧さんはカメラを持参し、「人生、肉眼で見るよりファインダーのぞいて通して見る時間の方が長かったんじゃないのかと思うくらい」と生前の捧さんの姿を振り返った。
新潟市西区の佐潟へ撮影に出掛ける捧さんに同行したとき、捧さんはお年寄りの団体に駆け寄って撮らせてほしいと頼み、撮ったら写真を送ると承諾を得た。「ちゃんと準備ができてんのね」と当時を上野館長は思い出す。
いつか燕市で秋山さんの作品展が見られる機会も期待されるが、「ぜひぜひ、いつでも」と上野館長。秋山庄太郎写真芸術館の建設にあたり、同史料館を参考にしたと言う。矢立煙管館の展示室が収蔵庫代わりにもなっていることに「展示の発想がいいですね」と感心し、「こちらの館の考え方をいただいた」、「ぜひ、うちの館でどんなに生かしているか見ていただきたいと思います」と話していた。