ことし2月にロシアのウラル地方に隕石が落下して世界を驚かせたのにちなみ、176年前に燕市に落下した隕石(いんせき)「米納津隕石」が13年ぶりに燕市へ里帰りし、12日から23日まで市役所に展示されており、大勢の来場でにぎわっている。
「米納津隕石里帰り展〜おかえり!米納津隕石〜」を開いて展示しているもの。米納津隕石は天保8年(1837)7月14日午後4時ころ、弥彦山と国上山の間から旧吉田町の富永の田んぼに落下と伝えられる。おとなの頭より一回りほど大きいくらいで、重さ31.65kg。全国で3番目に大きい隕石で、石質隕石では全国2番目の大きさを誇る。
明治32年(1899)の帝国博物館の勧めで東京へ出品され、その年のフランスの大博覧会に日本の代表品として出品された。その後も同博物館(今の東京・国立科学博物館)に収蔵され、複製模型が燕市長善館史料館に展示され、落下地点付近には記念碑がある。旧吉田町の時代に2度、米納津隕石が里帰りしており、今回は13年ぶりの里帰りだ。
米納津隕石は会場中央にガラスケースに入れて展示し、来場者はのぞき込むように見学している。あわせて展示しているパネルや資料が興味深い。米納津隕石落下にまつわる12点の文書を展示する。当時の富永村の庄屋の覚書から、隕石落下から60年余りたって帝国博物館に届けるという知らせがあったこと、隕石は大字富永の所有であり、売買や貸し出しは多数決で決めると申し合わせたことなどがわかる。
富永の旧庄屋、田辺家に伝わる掛け軸がある。南宗画家として知られた地蔵堂(旧分水)の富取芳斉(1808-80)が描いた隕石写生図も。パネルでは隕石落下当時、隕石が怒らないようにと水を飲ませたかと、熱病に効くといううわさからやすりで隕石を削り取って薬として飲んだり、偽物が見世物小屋に並んだりしたこともあったという、今となって笑い話のようなよもやま話も紹介している。
初日12日は午前中だけで185人が訪れ、来場者に切れ目がなく、大勢の来場でにぎわった。午後からは小池小学校の3年生58人も団体で見学に訪れた。加茂市栄町から見学に訪れた70歳の女性は燕市に育ち、「娘のころ、田植えに米納津辺りまで来ていて、年寄りから昔、隕石が火を噴きながら落ちたと聞いていた。こんなに大きいとはびっくり」と、何十年かぶりに言い伝えの証拠を目の当たりにして目を輝かせていた。
毎日午前9時から午後5時まで開いている。15日は午前10時からと午後2時からの2回、元吉田北小校長の関矢敦さんを講師に展示説明会を開く。入場無料。