燕市は3日、国の登録有形文化財に登録された水道の塔「燕市旧配水場配水塔」の登録有形文化財プレートお披露目会とともに記念講演会を開き、旧燕市配水塔のデザインの秘密を明らかにした。
燕市の配水塔は、ことし6月21日に正式に国の登録有形文化財に登録された。そのプレートが届いたことから配水塔の入り口の向かって右の外壁に設置。お披露目会には「燕の水道の塔を愛する会」会員など約30人が出席して除幕式を行い、鈴木力市長をはじめ、「燕の水道の塔を愛する会」の早川賛治会長、配水塔を調査した長岡造形大学の平山育男教授、斉藤広吉市議会議長、燕市文化調査審議会の石黒克裕委員長が紅白のひもを引いて除幕した。
記念講演会の講師は、その平山教授。全国各地の配水塔を調査し、それらをまとめた著書もある。この日のテーマは「旧配水塔のはどのように設計されたのか?ーいま、明かされるデザインの秘密ー」。平山教授は国の登録有形文化財への登録に向けて燕市の配水塔の調査を行ったが、その後、わかった配水塔の設計やデザイン、設計者の経歴について、額に入れた登録有形文化財登録証を前に話した。
設計したのは明治元年(1868)に大阪府で生まれた西出辰次郎。東京帝国大学(今の東大)を卒業すると横浜市水道局技師に就いた。全国各地の浄水場の設計を依頼されるたびに各地の自治体に雇用される形で青森、宇都宮、福岡、徳島と転々とした末、いったんは神戸に隠居したが、再び明石で技術顧問となり、昭和12年(1937)から東京に住みながら燕市の配水塔建設に携わった。
浄水場は配水塔より先に完成し、昭和13年(1938)11月28日に通水開始。配水塔はそれから5年遅れの昭和16年に完成した。
燕市の配水塔は、実は西出が初めて設計した配水塔。塔の丈夫にアールデコ調のぎざぎざがあり、飾りの格子や通風用の“がらり”がデザインされているといった特徴から、昭和4年(1929)に建設された大分県中津市の配水塔がプロトタイプになったことがわかった。
中津市の配水塔の設計図は、当時の技術書に掲載されており、燕市の配水塔のそれと極めて良く似ている。貯水タンクの容量も中津川市の205立方メートルに対し、燕市は206立方メートルとほぼ同一。ただし、中津市の配水塔は柱で立っているが、燕市の配水塔は雪国のこともあるのか、外壁を構築している。さらに中津市の配水塔は、大正7年(1918)に建設された尼崎市の配水塔がモデルになっている。この3きょうだいのうち、現存するのは燕市だけとなっている。
市外からの来場者も目立ち、60人が聴講した。巨費を投じた水道建設は、きな臭い話もつきまとったという話もあり、明らかになった燕の配水塔に封じ込められた歴史や物語に聴き入っていた。