燕市産業史料館は、「百年企業シリーズ」の皮切りとして燕の洋食器産業の礎を築いた燕物産株式会社(捧和雄社長・本社燕市小池)の歩みを紹介する、その名もずばり「燕物産株式会社展」を6日から23日まで同史料館で開いている。
燕物産は1751年(宝暦元)に初代捧吉右エ門が金物店「捧吉右エ門商店」を開業、屋号を“かなきち”と称したのに始まる。第八代捧吉右エ門は1911年(明治44)に東京銀座のカレー店「十一屋(じゅういちや)」から36人分の高級洋食器の注文を受けた。
それを手掛けたのが今井栄蔵(1875-1948)。鎚起銅器の玉川堂の三代目に入門して1895年(明治28)に年季明けで独立、玉栄堂を開業。各種博覧会にも出品、受賞し、宮内庁お買い上げとなった品もある。捧吉右エ門商店の銅器製造を担っていたこともあって十一屋の銀食器を製作。これが燕で作られた最初の金属洋食器とされ、それからことしで102年となった。
さらに1921年(大正10)、捧吉右エ門商店は、オーストラリアのボーレル社からステンレス鋼20トンを輸入し、ステンレス製洋食器の製造に着手。ボーレル社はステンレス鋼購入を条件にステンレス加工の技術者を派遣してくれた。
事業の拡大に伴う需要をまかなうため、燕には洋食器工場が次々と誕生した。1944年(昭和19)には今の「燕物産株式会社」と改称。燕の洋食器産業が世界へ羽ばたくに至る道を切り開き、けん引した。
燕物産の歴史は、燕の洋食器産業の歴史そのもの。同史料館職員が燕市仲町にある蔵へ足を運び、調査した。「燕の洋食器産業の正倉院」と驚くほど、貴重な資料が次々と見つかり、それらを中心に今回の展示を行った。
展示している「月桂樹」シリーズは、大正時代に生まれたカトラリー。今も生産を続けているシリーズで、実に100年も作り続けられている、まさにロングライフデザインだ。海軍が厚遇されたことを伝える、柄に象牙を使った呉海軍納入品象牙カトラリー。1974年(昭和49)の赤坂迎賓館納入品。彫金技術を惜しみなく使った昭和初期のフィッシュカービングナイフとフィッシュカービングフォーク。大正時代の工場の風景、おそらく国内で最初と思われる土産用スプーンなど、洋食器産業に詳しくない人でも見入ってしまうものばかりだ。
今の捧和男社長(61)は第十代になるが、第八代捧吉右エ門の胸像がある。1959年(昭和34)に八代目が黄綬褒章を受けた翌年、協力工場でつくる「桜友会」が製作したもの。三条市の彫刻家、半藤政衛さんの作で、今も自宅に飾ってある。天井には“かなきち”の屋号を染め抜いた当時ののれんを下げた。これも今も自宅で使っている。また、今井栄蔵が製作した鎚起銅器の作品も展示しており、その技術の高さには今の玉川堂の職人もうならせるほどという。
初日6日は夕方、燕物産は社員約50人を早退にして同展を見学してもらい、捧社長が自ら展示品の解説を行った。社員は100年を超える会社の歴史を目の当たりにした。十一屋はとっくになくなっており、十一屋に関する記録もほとんど残されていないが、今の貨幣価値にして1,500万円くらいになる十一屋の5,000円の株券もあり、「十一屋の話が作り話じゃない証拠になる」と話す社員もいた。
「スプーン」は日本なら「さじ」。地元の方言では「しゃじ」とも言う。捧社長は「ほかの仕事をせずこれだけを作り続けてきました。“しゃじ屋”に徹するというのを経営理念に掲げてますから」、「今まではヨーロッパに学んで技術、品質を磨いてきた。それを自社の商品に作り上げてきた。さらに今度は日本人の感性に合うように作って国内、世界へ発信していきたい」と話していた。
また、初日は前燕商工会議所会頭でもある山崎金属工業(本社燕市大曲)の社長、山崎悦次さん(73)も見学に訪れた。山崎金属工業もほかの地元洋食器メーカーと同様、燕物産から洋食器の生産を受注した。第八代捧吉右エ門さんのことは良く知っていて、「今で言う、紳士、ジェントルマンでした。物静かで、洋食器業界の人でないような、文学者のような雰囲気でした」と懐かしく思い出す。
自身は引っ越したときに古い物をかなり処分しており、展示物を見て「こんなに古い物が残されているのは大したもんだ。すごいねー」と感心していた。
8日は午後2時から1時間、展示解説会を開く。会期中は9日と16日が休館、開館時間は午前9時から午後4時半まで。入館料はおとな300円、子ども100円で、土、日曜と祝日は燕市内の小中学生と付き添いの保護者1人が無料。問い合わせは同史料館(電話:0256-63-7666)へ。