東日本大震災で燕市に避難していた有志でつくる南相馬燕会が燕市とのきずなの象徴に“福光桜”3本を寄付、39人が来燕して植樹 (2014.3.30)

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東日本大震災で燕市内に避難していて福島県南相馬市へ帰郷した有志でつくる南相馬燕会(水谷数雄代表・会員約140人)は29日、燕市を訪れて燕市とのきずなの象徴として“福光桜(ふっこうざくら)”と命名したシダレザクラの幼木3本を寄付し、その植樹式を行った。

南相馬燕会が燕市役所に寄贈した“福光桜”と名付けたシダレザクラ3本の植樹式、手前左から水谷代表、桜井南相馬市長、鈴木燕市長
南相馬燕会が燕市役所に寄贈した“福光桜”と名付けたシダレザクラ3本の植樹式、手前左から水谷代表、桜井南相馬市長、鈴木燕市長

南相馬燕会の会員のほか39人のほか、桜井勝延市長ら南相馬市の関係者も来燕。正午に燕市役所を訪れ、燕側からはは鈴木力市長をはじめ、今も南相馬市から燕市に避難している人、燕市内に開設された避難所でボランティア活動にあたった人など百人近くが出迎えた。

この日は抜けるような青空が広がり、三条でことし最高の21.4度まで気温が上がる初夏を思わせる汗ばむ陽気となった。庁舎前に南相馬燕会のバスが到着すると、庁舎前で拍手で歓迎。バスを降りる南相馬燕会の人たちに「会いたかった〜!」、「元気にしてた?」と声をかけ、互いに握手したり、抱き合ったりして再会を喜ぶ人も多く、涙を流す人もいた。

南相馬燕会を出迎え、抱き合って再会を喜ぶ
南相馬燕会を出迎え、抱き合って再会を喜ぶ

植樹式で南相馬燕会の水谷代表は「あのときの避難所生活におけるご支援は一生、忘れることができない」とあらためて感謝し、「今までの感謝の気持ちと後世に語り次がれますようサクラの寄贈とさせていただく。このサクラは“福光桜”と名前をつけたい」、「福が永遠に光輝きますということで、このサクラを“福光桜”とさせていただく」と植樹の意義を話し、今後も燕市との交流を続けていきたいと願った。

水谷代表
水谷代表

桜井市長は、南相馬市は今の状況について話し、震災から3年、津波で636人が亡くなったののに加え、原発事故で447人が震災関連死した。まだ2万6,000人弱の市民が避難生活を強いられている。南相馬市は2006年、燕市と同じように1市2町が合併して生まれたが、「原発事故で20キロ、30キロという線が引かれて、まったくばらばらの町にされた」と悔やんだ。

とはいえ、この日はめでたい植樹式だけに、「“桜”、“桜”という話が聞こえてますが、わたしも“桜”、“井”でございます」、「ぜひ、あやかって、さらに前に向かっていきたい」、「水谷会長が“福光桜”と“光”を与えていただいた。わたしの光が皆さんに届いてるのかな」と笑わせた。

桜井市長
桜井市長

昨年7月に南相馬市と燕市は災害時相互援助に関する協定を結んでおり、「今後とも交流が拡大し、燕市と南相馬市民が長く付き合わせていただければ」と願った。

そして代表者で3本のシダレザクラを植樹。3本ともすでに手が届かないくらいの高さまで育っており、来年は確実、運が良ければことしの春も花を咲かせそうで、それぞれは市役所北側の道路に面した植え込みに植えてあり、まだ土を入れていない根元に代表者がスコップで土を入れて植樹を完成させ、1本は鈴木市長、桜井市長、水谷代表の3人で土を入れた。

子どもたちも植樹
子どもたちも植樹

交流会に移り、鈴木市長も協定にふれて「(災害が)二度と起きないことがいいことで、むしろ平常時、いかにこんな形でどんどん、どんどん交流を広げていくかということが大切」とし、南相馬燕会がツアーを企画している4月20日の分水おいらん道中、5月の田んぼアートでの来燕にも期待した。

南相馬燕会から鈴木市長と3年前に燕市が開設した避難所を担当した職員に記念品を贈呈。その後、約1時間、市役所内で自由に歓談し、再び市役所前に出て南相馬燕会を見送った。一行は寺泊魚の魚市場通りや燕三条地場産業振興センターへ寄って、この日のうちに帰った。

左から鈴木燕市長、水谷代表、桜井南相馬市長
左から鈴木燕市長、水谷代表、桜井南相馬市長

震災からの復興はまだ始まったばかりだが、福島へ戻った人たちの表情は、これまでにも増して明るかった。3年前、3月17日から1カ月余り、燕市で家族4人で避難所生活を送った遠藤敏子さん(70)=南相馬市鹿島区=は、「新庁舎ができて変わってびっくりした」と昨年、完成した燕市の新庁舎に目を丸くした。福島へ戻ってから燕市へを訪れたのは初めて。「燕市に来てうれしいわね。あんまりうれしくて3日前から眠れなかった。今朝も6時出発なのに4時ころから起きて用意をした」と笑った。

谷地正記さん(65)=南相馬市鹿島区=は、海際にあった家を津波で流された。家族は散り散りに避難し、谷地さんはひとりで3月17日から5月2日まで燕市で避難所生活。大工だったが、大工道具も家と一緒に津波にのみ込まれた。燕市へ避難している間に、三条市の金物業者から大工道具一式の寄付を受けた。

記念写真撮影
記念写真撮影

南相馬市に戻ると、仮設住宅で暮らしながら、その道具を使って大工仕事を再開したが、防災集団移転促進事業で高台へ移られることになった。もちろん家は自分で建てる。「何とか年内に再建のめどがたちました」と喜ぶ。

谷地さんは、一昨年の分水おいらん道中を見学するツアーに参加しており、久しぶりの燕市に「懐かしいな〜」としみじみ。燕市民は「温厚な人ばかり」で「会話をしていても一歩下がって物静かに言葉を選んで話す人が多い」と好印象をもっている。

4月から原町高校へ通う菅野紗也さん(15)=南相馬市鹿島区=は、3月17日から5月下旬まで燕市で家族5人と親せきとともに避難生活。当時は小学校6年生の終わりで、燕市へ避難すると小池中学校に通った。

燕市に避難して小池中に通った菅野さん(中央)とそこで親友になったクラスメートだった2人とジャンプ
燕市に避難して小池中に通った菅野さん(中央)とそこで親友になったクラスメートだった2人とジャンプ

福島で通った中学校ではテニス部に入ったが、放射線の影響で最初は部活動は体育館だけで行うなどの制約があった。福島へ戻ってから燕市を訪れたのは、この日が2度目。菅野さんに会いに小池中でクラスメートだった親友2人が訪れ、3人ではしゃいでいた。

菅野さんは「申し訳ないですが、(避難生活は)むしろ楽しかった。市長もいろんな所へ連れてってくれた」と正直に話す。震災で失ったものは数多いが、燕市で掛け替えがない親友と巡り会うことができた。

南相馬燕会について桜井市長は、「自治体との間で組織をつくって交流するのは初めて」で、全国各地に市民が避難しており、「率先した形であると同時にモデルにもなるんじゃないか」、「できるだけわれわれとしても応援していきたい」。三条市に燕市以上に大勢の人が避難しており、見附市、新潟市、長岡市も同様で、「できるだけ新潟県との交流を深めていきたい」と期待した。

南相馬燕会を見送る
南相馬燕会を見送る

南相馬燕会の人たちの話を聞くと、住宅事情も改善に向かっているようだ。桜井市長によると災害公営住宅28戸の引き渡しがあり、年内には災害公営住宅が完成してい集団移転だけでなく、自分の家に住むことに、「ことしいっぱいで大まかなめどがつきつつある」と言う。ただ、「まだまだなのは20キロ圏内。ここを何とか再建しないと。一刻も早く彼らが戻りたいと思うような状況にしていかないと」。

そろそろ福島にも花便りが聞こえてきそうな季節。中通り地域は開花が早いが南相馬の開花はまだで、「震災のときはサクラがかわいそうでしたからね。花見っていう感じにはなりませんでしたから。ゆっくり眺めたいですよね」と桜井市長は話していた。


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