18日開かれた国の文化審議会(宮田亮平会長)で、新潟県内にある8件の建造物が登録有形文化財に登録されることになった。このあと登録を文科相に答申し、答申後に官報告示をもって正式決定に。この8件は三条市と燕市のそれぞれ4件で、“越後の鹿鳴館”とも称される建物をもつ燕市の今井家をはじめ、三条市の大通りに面した小松酒店、旧新光屋米店、下田地区の諸橋轍次記念館の遠人村舎(えんじんそんしゃ)の建物が登録される。
登録が決まったのは、燕市が今井家=吉田下町=の住宅主屋、西洋館、新座敷、旧今井銀行店舗。三条市が小松酒店=本町1=店舗兼主屋、旧新光屋米店の店舗兼主屋と精米所、諸橋轍次記念館=庭月=にある遠人村舎。これで両市の登録有形文化財は燕市10件、三条市19件となる。
今井家は浅井家に使えた近江源氏の武士の出身で、1705年(宝永2)に没した菅田善五郎を初初代とし、300年余りにも及ぶ歴史をもつ。幕末までに500町歩の小作地をもつ巨大地主となり、さまざまな事業を展開し、隆盛を極めた。
今も約7,000平方メートルの敷地に歴史的な建造物が立ち並んでいるが、なかでも西洋館が貴重だ。登録有形文化財登録基準では3つの基準のうち「3」の「再現することが容易でないもの」とされた。
1892年(明治25)ころに来客の接客や商談のために応接棟として建設された。主屋南に隣接するれんが造二階建て。外壁はフランス積で2階にアーチを窓を並べ、屋根上に五角形平面の火の見やぐらを上げる。内部は洋室でシャンデリアや花弁型の中心飾りなど明治期らしい重厚華麗な内装をよく残している。通りに面した外壁には、戦後に興した置き薬事業の「香林堂」が大書されている。
2002年発行の『歴史遺産 日本の洋館〈第1巻〉明治篇(1)』(講談社)では“越後平野の壮大なる鹿鳴館”とあり、表紙も西洋館のシャンデリアの上についているボタンの花をモチーフにした中心飾りをデザインしている。
新座敷も明治中期の建築で、西洋館の南に建つ木造平屋の客座敷。東から玄関の間、中の間、上段の間と3間続きで上段の間は最も格の高い座敷で貴人を迎える良材を用いた書院座敷。
主屋は江戸後期の建築で、平屋建妻入で、ミセ空間をもつ主体部と接客の間の“多聞”をもつ2階建を並べる。前面に雁木、玄関から裏口まで続く通り土間沿いに広い座敷の茶の間が並んで奥に当主の座敷を配し、大地主の豪壮な住宅だ。
旧今井銀行店舗は、1920年(大正9)建設の銀行建築。レンガ造3階建で、鉄骨の床梁や鉄筋コンクリート造の屋上を取り入れる。外壁は焼過煉瓦(やきすぎれんが)、窓回りなど要所は花崗岩(かこうがん)で装飾。頂部は鉄板張のパラペット(手すり壁)を立ち上げる。
02年に67歳で死去した13代当主の妻寿子さん(79)は、「(13代当主は)存命中も個人が守っていく時代ではなくなったと話していた」と言い、居住スペースは除いて「旧今井銀行店舗の建物だけでも皆さんが利用できるようになれば」といずれ公開したい考えだ。
鈴木力市長は、「文化的、歴史的な建物が登録されることは喜ばしいこと」と話した。
一方、三条市の遠人村舎は漢学者諸橋轍次が大漢和辞典の編さんを手掛けた建物。明治期に建築された、1937年(昭和12)、1996年(平成8)と移築されて今の諸橋轍次記念館敷地内にある。切妻造で四畳半と三畳の続き間に北西に半間幅の廊下を配す。外壁にスギ板を張り、内部は吟味された丸太材を使い、漢学者の書斎にふさわしい趣のある意匠だ。
小松酒店店舗兼主屋は1929年(昭和4)建築で、中央商店街に面した木造2階建の入母屋造、上部に妻入りの町屋。東側に通り土間がある。せがい造の入母屋屋根がこの地域の町屋の特徴をよく示す。
旧新光屋米店は、今はみんのまちの交流拠点「みんくる」として使われている。店舗兼主屋は昭和3年ころの建築で昭和中期と「みんくる」として昨年、改修。一ノ木戸商店街に面した2階建ての町家で、入母屋の表面を見せる。1階正面を雁木状の歩道、内部は天井が高く、平面形式などに地方的特色を備えた近代の町家。
精米所は大正期の建築で、店舗兼主屋の背面に建つ、れんが造平屋建。背面はイギリス積、入り口上部を半円アーチ、窓などの開口部分は欠円アーチ。小屋組はキングポストトラスを組み、この地域では希少な戦前期にさかのぼるれんが造建築。