「敬老の日」の15日夜、燕市宮町、戸隠神社(星野和彦宮司)で初めての「お月見の会」が開かれ、琴の演奏が行われる。演奏するのは静岡出身で海外での演奏経験もある琴の奏者であり、同神社権禰宜(ごんねぎ)の妻の渡辺志保さん。秋の宵に神社拝殿で燕市では初めてその腕を披露する。
「敬老の日」の15日夜、燕・戸隠神社で開かれる「お月見の会」で琴の演奏を披露する渡辺志保さん
志保さんは静岡県静岡市出身で、旧姓は両角(もろずみ)。母も19歳から琴を習っていた。母の先生から群馬県の高崎芸術短期大学へ進学すれば、琴で受験でき、大学で教員免許も取れると勧められ、高校生だった17歳から琴を始めた。20歳で生田流宮城会の教師の資格を受けている。
予定通り同大学音楽科で琴を専攻。卒業すると静岡市へ戻り、市の臨時職員として働きながら国際交流課の事業として外国から客を迎えたときの演奏会で演奏したり、先生とともに中国・上海や静岡市と姉妹都市の米国・オマム市、さらに台湾、シンガポールなどへ演奏旅行を行った。
その後も派遣職員などをしながら琴を続けた。2003年にハワイへ演奏旅行に訪れた。日本で高校の教員だったハワイの寺の住職の日本での教え子に同じ琴の流派の大師範がおり、そのつてで志保さんの先生にハワイでの演奏依頼があり、志保さんも演奏旅行に同行した。
志保さんは、住みたいと思うほどヒロが大好きになった。英語も好きで留学もしてみたいと住職に話すと、さっそく学校めぐりをさせてくれた。ある朝、「いい方法がある」と住職から連絡があり、琴仲間と5人でハワイで唯一の神社、ヒロ大神宮を訪ねた。その宮司がのちに夫となる戸隠神社権禰宜の渡辺大蔵さんだった。
大蔵さんは元々、神職にゆかりはなかったが、燕市の出身で三重県伊勢市の皇学館大学を卒業。さらに加茂市の新潟経営大学に進むかたわら、96年に星野宮司に勧められて戸隠神社に奉職して神職の道へ。ヒロ大神宮の職員募集に応募し、99年にハワイへ渡る直前になって当時の宮司が亡くなったため、職員の予定が20歳代半ばの若さでいきなり宮司として奉職。1年半たってようやくハワイの空の美しさに気づいたというほど、無我夢中で大役を務めていたところだった。
大蔵さんと志保さんが独身で年ごろも近いことから、住職がだまし討ちを企てた事実上の見合いだった。結婚すれば志保さんはヒロに住むことができ、それが住職の言う“いい方法”だったというわけだ。もくろみはずばり的中し、翌04年8月に結婚。法律的な制限で2年9カ月もの別居期間をへて07年5月にようやく一つ屋根の下で暮らすようになった。
志保さんは琴の演奏で老人ホームへの慰問を始め、地元でだんだん知られるようになって日系人協会やライオンズクラブのパーティーから出演依頼を受けるようになり、一方で3人の弟子にけいこをつけるようになった。
11年5月で大蔵さんの宮司の契約の任期が切れ、戸隠神社の星野宮司から戻ってこないかと勧められたり、子どもは日本で育てたいという思いもあり、昨年4月に帰国。燕市内に住み、戸隠神社の権禰宜を務めている。
もちろん志保さんは琴を持ち帰ったが、年内に新居が完成することもあって多くの荷物はまだ梱包したまま。昨年2月のハワイでのさよならパーティー以来、琴を弾いていなかった。琴は修理が必要な状態だったが、今回のお月見の会で出演依頼を受けたため、7月に修理に出した。年長児の長女と2歳長男があるため、思うに任せないが、8月末から時間を見つけて1年半ぶりに練習を始めた。
演奏曲は「荒城の月」と「ジュピター」を予定。ハワイでも子どもを授かるまでは毎月、奉納演奏を行っていたこともあり、今回の演奏の依頼も喜んで引き受けた。琴に向かう志保さんは「やっぱり張りたての弦は気持ちがいい」と弦をはじきながら自然に笑顔がこぼれる。
「弾かせてもらえる機会がたくさんあるようなら本格的に練習しようかな」と志保さんは意欲的。中学校のカリキュラムに和楽器が導入されると聞き、「中学校の子どもたちと気持ち良く演奏ができそう。たくさんの子どもたちとやりたいという野望はあります」と笑う。久しぶりに志保さんが琴を弾く姿を見る大蔵さんは「あらためてほれ直しました」とちょっぴり顔を赤らめて笑った。
本番は15日午後6時から神社拝殿で行う。戸隠神社と地元の宮町氏子総代が主催。ことしは戸隠神社でさまざまな新しいイベントが行われており、夏は七夕祭りを行ったので、秋はお月見の会をと企画した。このあともハロウィーンやクリスマスにちなんだ行事を検討している。