病気療養中だった燕市議の田村善典さん=燕市吉田大保町=が28日午前9時37分、入院先で死去した。63歳。10月1日午後7時から通夜、2日午前9時半から葬儀、同10時半出棺、会場はいずれも燕市杣木、セレモニーホール飛燕。葬儀委員長は吉田商工会会長の美内信孝さん、喪主は由美子さん(64)。
田村さんは法政大学工学部を卒業すると、すぐに父の自動車販売業、田村モータースを継いだ。政治に興味はなかったが長年、吉田商工会副会長に就き、自治会の会計も務めたことから公私で人望を集め、2003年の旧吉田町の町長選に周囲に押されて出馬した。
残念ながら当選は果たせなかったが、同じ年に行われた町議選で当選し、さらに合併後の燕市で2回当選した。
前回10年の市議選直後に受けた人間ドックで大腸がんが見つかったが、すでに病期は最も進行したステージ4だった。何度か手術をし、ことし5月からは入退院を繰り返した。
亡くなった28日は、ひとり娘のさゆりさん(36)が主宰する「さゆりバレエスクール」の小中学生17人が吉田中学校で開かれた燕市の長寿まつりで、バレエアレンジをした燕市のよさこいソーラン「舞燕」を披露することになっていた。
妻の由美子さんは、子どもたち17人分の衣装の帯、着物、髪飾りをすべて作った。もちろん、田村さんも元気なら見学に出掛ける予定だったが、果たせなかった。
病院で田村さんについていた由美子さんは、午前11時ころのステージに間に合うように出向くつもりでいたが、心拍が弱くなってきているからと看護師に止められ、由美子さんが見守るなか、田村さんは眠るように息を引き取った。
由美子さんはすぐにさゆりさんに連絡すると、会場ではリハーサルの最中だったが、さゆりさんは子どもたちにはそのことを内緒にし、無事にステージを務めた。田村さんはもう少し早く亡くなると思われており、その通りだったらステージは中止せざるを得なかった。
「本番の日まで、プラス2日くらい頑張ってくれた」と由美子さん。さゆりさんも「それもお父さんの最後の気遣いのひとつだったのかも。本番直前だったので、気丈にいられた」と言う。
田村さんは、大腸がんとわかってからもふだんと変わりなく過ごしたと由美子さんは言う。「色白でスタイルが良かったけど、男っぽい人だった」。最後まで周囲に気遣い、看病するさゆりさんが仕事をおろそかにしていないかと心配し、看護師に睡眠薬は何時ころがいいかと聞かれると、看護師さんの都合のいい時間にと答えたと言い、紳士的な姿を最後まで貫き通した。
由美子さんとは中学校の同級生で、同級会で再会して付き合うようになって結婚し、12月14日で結婚からちょうど40年になるところだった。さゆりさんは14歳のときに本格的にバレエをやりたいと上京した。20歳のときに東京新聞主催全国舞踊コンクールでさゆりさんは優勝した。田村さんはコンクールを見に東京へ出掛け、優勝してマスコミの取材を受けるさゆりさんを誇らしく見守っていたと言う。
田村さんがバレエスクールをつくってあげるからと説得されて、さゆりさんは実家へ戻った。田村さんはバレエスクールをいろいろな面から支えてくれたが、病気がわかってからは体にさわってはと、さゆりさんが手伝いを頼まなくなると「もっと男を立てることを覚えた方がいいと怒られた」と、さゆりさんは懐かしく思い出す。
さゆりさんを誇りに思ってきた田村さんとふたりで歩んできた由美子さんは「本当に幸せな人生だったと思います」と目を細めた。