28日午後7時から三条市中央公民館で三条仏教会(会長・田代宥正福楽寺住職)主催の第43回仏教文化講演会「歌と法話のコラボレーション うたかたり」が開かれ、200人近くが来場。講師からは三条市出身のプロレスラー、ジャイアント馬場さんにまつわるエピソードも飛び出し、歌と法話が織り成す世界を楽しんだ。
「うたかたり」は、フォークシンガーの小林啓子さんと真言宗僧りょの天野こうゆうさんが、歌と話で仏教説話をわかりやすく説き、今を生きる人たちに心のみちしるべを示す新感覚のライブイベント。
天野さんは1968年に岡山県倉敷市で生まれ、高野山で修行後、祖父を継いで住職となり、自坊での「こども寺子屋」を開校、古民家で「くらしき仏教カフェ」を開催、地元ラジオでパーソナリティーやニュースコメンテーターも務める。小林さんは東京生まれで、大学生時代にプロ活動を始め、カレッジ・フォークブームのなかで注目を集め、2002年、約30年ぶりに音楽活動を再開した。
ステージには、そのふたりに小林さんのサポートギタリスト山口玉三郎さんを加えた3人が並び、天野さんの法話と小林さんの歌を交互に繰り返す形で進んだ。小林さんは9月にも燕市でコンサートを行った森山良子さんと同い年で、“良子ちゃん”と呼ぶ仲。森山さんがフォークの女王と呼ばれたのに対し、自身はフォークの“女神”と呼ばれたと笑い、白い衣装にフォークギターを抱え、「翼をください」など、信じがたい透明感のあるつややかで張りある歌声を響かせ、来場者を魅了した。
けさをまとった天野さんは、ソフトな語り口。永六輔さんの勧めもあって8年前に小林さんと“うたかたり”を始め、昨年、村上市や五泉市で講演したのがきっかけで、今回の出演依頼を受けたことなどから話した。
三条市ということで、天野さんが初めて「うたかたり」で話したのが、ジャイアント馬場さんにまつわるエピソードだった。天野さん初めて新潟のコメを食べさせてくれたのが、ジャイアント馬場さんの妻、元子さんだった。
天野さん大のプロレス好き。馬場さんが亡くなって2年後、四国で2泊3日のお遍路に回る元子さんのお供を頼まれた。馬場さんが亡くなってから家に閉じこもっていた元子さんは、供養を兼ねてお遍路に回ることにした。
道中の所々で元子さんは「正平さん、正平さんと馬場さんの本名を言いながら涙を流された」。お遍路の間、元子さんから聞かせてもらったいろんな話を紹介した。
馬場さんは、プロレスの前に鳴り物入りでプロ野球の巨人に鳴り物入りで入団したが、なかなか多摩川の練習場に現れず、背の高さをからかわれたりした。ようやく寒い日に練習場に来た馬場さんは、スパイクをはかずにはだしで練習し、またからかわれた。ところが寄宿舎へ帰ってみると、馬場さんの大きなスパイクの中に2匹の子ネコが入っていた。馬場さんは子ネコをスパイクから追い出せずに、はだしで出掛けたという優しさのあらわれだった。
プロレスは年に300試合くらい行い、全国をバスで回った。会場の体育館の入り口を入っても、それがどこの体育館かさっぱり区別がつかなかったが、天井の照明の形を見ると、どの会場かすべて言えた。練習のときに投げられて受け身をとり、天井を見る。つまり、天井の違いで会場を覚えてしまうほど本番前にたくさんの練習をしていた。
19番札所の立江寺の門前には、2メートルから3メートルもある大わらじが下げてある。「それを見たときに元子さんは、わーっ!て泣き出した」。昔、馬場さんの母とお遍路に回ったとき、このわらじを見て母が「正平の足より大きな人がいる」と言って泣いた。笑い話のようだが、本当に足が大きいのがコンプレックスで、親としてはこんなに大きく生んでごめんなさいが合い言葉だったそう。
元子さんから釈迦の足跡をかたどった大きな“仏足石”について聞かれ、元々はふつうの大きさだったが、釈迦の功績をたどるうちにどんどん立派だった、大きかったと言ってどんどん大きくなり、それを拝むようになった説明すると、元子さんはまた泣いた。馬場さんが亡くなった年に東京ドームで行われた引退試合で、元子さんは馬場さん愛用の16文のレスリング・シューズをリングに置き、そして引退の10カウントが打ち鳴らされた。
「わたしは馬場さんの素晴らしいところをずっと語っていこうと思ったが、馬場さんの靴を見てもらうだけで、シューズを見てもらうだけで、あの人の強さや優しさがにじみ出る。お遍路でこんなことを学んだと(元子さんから)手紙をいただいて、最初に送ってきてもらったのが、新潟のコメだった」。
天野さんが話し終わると、会場には割れんばかりの拍手が鳴り響き、山口さんのギターに導かれて小林さんは自分の元を去った息子の心境を歌った「ダニーボーイ」を語りかけるように歌い始めた。
目をうるませる来場者も多く、しみ入るような音楽と言葉に心を震わせて聴き入っていた。