正会員の金属ハウスウェアメーカー56社とその取引企業の準会員11社でつくる日本金属ハウスウェア工業組合(池田弘理事長)は1日、燕三条ワシントンホテルで同組合の設立50周年記念式典を行い、高度成長期から半世紀に及ぶ歩みを祝った。
来賓と組合員60人近くが出席。池田理事長は式辞で、最も記憶に残るのは消費税総額表示方式にかかわる法律施行のときの行動で、故吉川嘉之さんの問題提起を受け、当時の柄沢好兒理事長を中心に「小さな地方の都市の活動を全国の生産者諸団体への活動へと昇華させ、施行期間も決まっていた法律を生産者にとって有利なものとなるよう修正を勝ちとった」。
さらに、大手企業が大きくなり過ぎ、海外進出を余儀なくされていることを危惧する。国の経済政策によって得た利益が国内の中小企業に届かず、海外に流れているのが現状。日本は先進国に珍しく憲法で勤労の義務を課している国。国民生活の向上を実現するのは、中小企業が利益をもたらすことで国内の消費に回り、経済が好転する。
組合は国などからの情報をより早く届けること、組合員の小さな声をまとめあげ、より大きなものとすることしかできないが、「それこそ中小企業発展につながる工業組合の役目と考える。これからも諸先輩方からの思いを忘れることなく、すべては国などのための日本ハウスウエア工業組合となるよう活動してまいる」。
経済産業省商務情報政策局日用品室の高橋政義室長の祝辞を岩村公隆室長補佐が代読、泉田裕彦知事の祝辞を県産業労働観光部の池田幸博部長が代読したあと鈴木力燕市長が祝辞を述べた。
鈴木市長は「“鈴木市長”があるのは実はハウスウェア工業組合があったからでは」と県職に就いた当時から振り返った。昭和58年に入庁して3年間、十日町保健所に勤務した後、本庁に戻り工業振興課に異動した。その前年にプラザ合意があり、円高が進んで燕市の産業界の将来が心配された。
当時の本間栄三郎課長に「燕の人間だから燕のことをやってもらわねば」と言われ、最終的に同組合の円高対策補助金などを担当した。工業振興課に移ってわずか2、3日目で同組合の打ち合わせ会議に出席。何もわからず、黙っていると「当時の中林常務がお前、県庁の担当だろ。今、われわれがこんなに円高でどうするかという議論をしてるときにただ単に会議に出席して一言もそれについて意見を言わないなんて何事だ!という風に怒られた」。
「それでわたしの心に火がついた」。それから「死に物狂いで勉強させていただいた」と感謝した。
燕市の具体的なプランを披歴した。全国各地、県内では長岡市が「日本酒で乾杯を推進する条例」、いわゆる「乾杯条例」の制定が盛んだ。それに対して燕市は「金属酒器で乾杯条例」をつくったらどうかと提案。金属酒器を取り扱う飲食店やホテルが増え、燕の地域文化になり得るとし、普及のために認証制度のアイデアも披露。最後に「皆さんとともにこの地域の産業が活性化し、地域が活性化するということを燕市としてこれからも取り組んでまいりたい」と話した。
歴代理事長への感謝状贈呈で、第4代の遠藤栄松さん、第6代の和田喜代作さん、第7代の柄沢好兒さんに池田理事長から感謝状を手渡した。閉式後、記念講演、記念撮影、祝賀会を行った。
50周年記念事業では、式典のほかにB5判、15ページの記念誌を作成。来年度、燕市産業史料館で同組合に関連した展示を行う予定だ。