東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故のために三条市に避難している福島県浪江町の田辺保之さん(49)が11日、避難している人を元気づけたいとコメと歌を届けた三条市立保内小学校の5年生に震災当時のことなどを話した。
震災から4年のこの日、三条市総合福祉センター内の避難者交流ルームで、三条市に避難している人や市民が訪れ、献花と黙とうを行った。あわせて、避難している人たちのためにと、保内小5年生24人が学校田で育てたコメと歌をプレゼントしたが、田辺さんから予定になかった地震の経験談を話してもらった。
田辺さんは福島なまりの親しみやすい話し方で、ふるさと浪江町の話や漁師をしていた自己紹介をした。浪江町は太平洋に面した人口約2万7千人の小さな町。町民のうち福島県に残っているのは半分の約1万3千人で、小学生の子どもなどがある家庭は県外に出ていると話した。
田辺さんは3人の子どもがあり、6年生の男の子が三条小に通う。2年生の終わりに被災した。そのとき、田辺さんは漁から帰って家でテレビの刑事ドラマを見ていた。犯人がわかりそうな時間に、「まもなく大きい地震が来ます」とテレビのテロップに入り、「3秒後にカタカタカタときて、ものすごい揺れになった。家の中にいたら危ないからみんな外に出ろと。俺と母親と奥さんと、中学校1年生だった長女と外に出たら、大きな地震だった」。
止めてあったトラックが大きな揺れで横に1メートルほど動いた。「地面が動いていた。その地面が割れて、水がジャージャー出てきた。後でわかったが液状化という現象。これはだめだ、避難するべとなった」。
小5の二女と小2の長男は高台の小学校にいた。津波に襲われる心配はなかったが、田辺さんが学校に向かうと、グラウンドの真ん中に敷いた青いビニールシートの上にかたまって泣きじゃくっていた。家族は全員が無事だった。
揺れから35分後、津波が来たと聞いた。高台から見ていてわからなかったが、近所でも8人くらい亡くなった。隣り村の漁協があるところは190人くらい亡くなった。あとになって、車で逃げて渋滞に遭って津波にのまれて亡くなったという話を聞いた。手をつないだまま亡くなった老夫婦もあったと言う。
東日本大震災の10日ほど前にも津波警報が出た。避難したが、実際には津波の高さはわずか1センチほどだった。「みんなが津波って大したことないんだなという意識が強かった」。
東日本大震災の揺れはそれと比べてもはるかに大きく、「海で仕事をしていたから、これはやばいかなと思って避難した」、「逃げるとき、畑仕事をしていたおじさんもいて『避難するよ』と声をかけたが、避難の間に合わなかった人もいたようだ」。
震災発生翌日、近くに原発があることを思い出した。海抜0mのところにある原発を高さ17mくらいある波が襲ったため、「波かぶって爆発して、メルトダウンした」。
「新潟にも柏崎あるし、二度と事故を起こしてほしくないし、できれば使ってほしくないけどもやっぱり電力は必要だし。いろいろあるんで」、「でもこれからみんなが大きくなるまで何の事故もなければいいと思うので、自分の子どもらみたい、いろんな所へ避難しなくてもすむ時代が来ればいいと思います」と願った。
また、南相馬市小高区から避難している「ひばり」代表の佐竹紀さん(75)は、震災から6日目の3月16日に南相馬市から6台のバスに分乗して三条市に避難し、雪が降る深夜にこの三条市総合福祉センターに着いた。
その後も三条市は次々と訪れる避難者を受け入れ、避難所は最大4カ所に。震災から半年近くたった8月31日にすべての避難所を閉じ、それぞれが都合をつけた避難先で生活を送っている。
三条市での避難について佐竹さんは、「手厚いご支援をいただきながら、また、皆さんに今日、来てもらってとってもうれしい」とこれまでの支援と子どもたちの気持ちに感謝した。
長い避難生活のなかでいちばん辛かったのは、自宅を離れて避難していること。盆や正月に子どもや孫に会い、墓参りをするという、ふるさとで日ごろしていたことができなくなったこと。孫のような児童たちが自分たちのことを忘れないでいてくれていることが本当にうれしいと重ねて礼を述べた。
田辺さんや佐竹さんの話を涙を流しながら聞く児童もいた。石田リシェルさん(11)は、「知らないところで、こういうことが起きていたんだとびっくりした。亡くなった方もいるので、気持ちを込めて黙とうをしました」。飛岡希誌君(11)は、「大変な思いをされたんだな。少しでも気持ちが楽になってほしいと思った」と話していた。