「弥彦東線」とも呼ばれた弥彦線の東三条−越後長沢間が廃止されてからちょうど30年になった3月31日、ケンオー・ドットコムの藤井大輔&芳輔の鉄道コラム『鐵道双見』でそのことに関するコラムを掲載したが、コラムを読んだ読者から昭和31年に弥彦東線の鉄橋を撮影した写真が提供された。
提供のあった写真は3点。いずれもモノクロで、昭和31年9月3日の撮影と思われ、旧三条市と旧下田村を結んだ五十嵐川の鉄橋付近で撮っている。
まずは白煙を吐きながら鉄橋を渡る「デゴイチ」の愛称で広く知られる国鉄D51形蒸気機関車。プレートには「D51735」とある。このプレートを付けた車両は現在、村上市荒川町体育館に保存されているようだ。
今は清流大橋が架かっているが、それまでは鉄橋の上流側に木橋の篭場大橋とも呼ばれた高岡橋が架かっていた。もう1枚は鉄橋の橋桁ごしに木橋をバスが渡る写真。木橋や流線型のように丸みのあるバスが時代を感じさせる。
最後の1枚は下田側の五十嵐川右岸から三条方向の五十嵐川に架かる木橋と鉄橋を見下ろした写真。奥には五十嵐川左岸の道心坂も見ることができる。今は道心坂の道から五十嵐川へ落ちる急な斜面にサクラなどの巨木が数多く立つが、この写真には大きな木はほとんど見られない。
この写真を寄せてくれたのは、下田地区の三条市長野で電気店を営む渡辺隆一さん(72)。自身も郷土史に関心が高く、昭和30年代後半から写真を趣味にしているが、この3枚の写真は長野県に移った大正13年生まれのおじさん、目黒一也さんが撮影した。
目黒さんは昭和20年代後半から写真を撮り始めたようで、高齢なこともあって5、6年前に下田地区で撮影したものを中心に譲り受けた写真のなかに含まれていた。一般にもカメラが普及し始めた昭和30年代後半以降の写真は多いが、それ以前の写真は貴重だ。
また、渡辺さんの祖父に森町村役場職員で村長代理まで目黒善十郎さんがある。その遺品から「國鉄彌彦線越後長澤驛より福島懸只見町に通ずる國鉄バス運行、道路開發請願書」を見つけた。昭和25年12月9日付けの文書で、新潟県南蒲原郡の町村会長と町村議会協議会長による陳情書に先だって新潟県知事と福島県知事がそれぞれ運輸大臣、国務大臣、国鉄総裁などに副申書を添えてある。
請願の内容は、弥彦線の長沢駅を起点に南蒲原郡鹿峠村、森町村大字笠堀をへて福島県只見町に通ずる国鉄バスの運行と道路開発を求めている。さらに詳しく見ると、長沢駅から只見町へ通じる鉄道開発の前提として森町村大字大江に至る国鉄トラックの営業開始を見ており、これを只見町へ通じさせるために昭和22年に以降に新潟、福島両県で会越産業道路開発期成同盟会が組織されたとある。
弥彦線は栃木県の日光まで延ばす考えがあったと言われる。この請願書で少なくとも只見町までの鉄道開発の構想があったことがわかり、三条市と只見町を結ぶ八十里越は今も建設が進んでいるが、すでにこのころから同様に期成同盟会が発足していたこともわかる。
只見町へ鉄道や道路が延びなかったことについて渡辺さんは、目黒善十郎さんから「子どものころ政治家の力がなかったからと話ているのを何度も聞いた」と言う。弥彦線の延伸ではなく、磐越西線や只見線が整備されたということか。
結局、弥彦線は只見町へ延びるどころか東三条−越後長沢間が廃止される結果となり、歴史を振り返っていろいろなことに思い起こさせる。