三条市歴史民俗産業資料館では、9日から7月26日まで同資料館で三条市名誉市民の人形工芸作家、鶴巻三郎(1908-2005)の没後10年を記念した鶴巻三郎展を開いており、鶴巻の創作の歴史をなぞるように29の作品を展示している。
鶴巻三郎は1908年(明治41)に今の三条市神明町に生まれた。三条商工学校(今の三条商業高校)を卒業し、35年に紙塑(しそ)人形の制作方法を創始。37年に三条市出身の染色工芸作家で東京芸大教授だった広川松五郎に師事した。
日展や日本現代工芸美術展の審査員、現代工芸美術家協会理事などを務め、勲五等双光旭日章も受けた。84年の第23回日本現代工芸美術展で文部大臣賞を受賞、2002年には三条市名誉市民となった。
個展は1995年に同資料館、2000年に新潟市西区・雪梁舎美術館で開かれて以来、15年ぶり3回目。鶴巻三郎の青年期から晩年までの作品を反時計回りに年代順に展示している。
最も古い作品は昭和10年ころ制作の能面。本来は木彫彩色のところ、鶴巻は植物繊維などを練り合わせた独自な材料で制作した。しかし、観世流24代宗家の能楽師、観世左近に「関心の核が造形表現であるのなら、能面にこだわることなく、あなた独自の新しいものを創作してみてはどうでしょう」と言われ、鶴巻は能面の道をすっぱりあきらめたと言う。
鶴巻は三条市出身の染色工芸家、広川松五郎(1889-1952)の書生だったことがある。当時の作品が「ろうけち染はな花」。広川に染色工芸を学んだが、「造形に興味があるなら、おまえは平面ではなく立体をやれ」と言われ、それが人形工芸作家への出発点となった。
鶴巻の生み出す人形は、昔話や昔の日本の子どものようすを描写したものから始まり、しだいに造形の省略、抽象化が進んでいくようすが展示作品からはっきり見てとれる。1950年(昭和25)制作の抽象化の過程にある「あさのひととき」は、作品展示はないが、広川に「鶴巻くん、これは新しすぎるよ。理解してもらえないよ」と言われたエピソードを紹介する。
晩年は抽象的な造形に青、黄、緑、白、それに金ぱくを使った作品が主流だ。抽象的といっても親子や対話、生命の連鎖など命や人がテーマになっている。雪梁舎での個展のときに同館だよりに「私の紙塑人形」と題した一文を寄せた。そこには抽象的になっていったことについて「それは私の中に絶えず時代には時代の新しい人形が生まれるべきものと深い信念があったからだ」。
さらに「ここ数年は家族の和、愛情などをテーマに心に浮かぶ心象を主として作品に表している。だが本当の意味の創造的芸術の高さとは一体何であろうか」と書く。鶴巻の最後の絶作となった「対話」では、色をほぼ緑1色に限定。当時、93歳だったにもかかわらず、なお新たな表現に挑む鶴巻の姿勢が感じられる。月曜は休館日で午前9時から午後5時まで開館、入場無料。