三条市本町4、和菓子店「つるがや」の1924年(大正13)建築の店舗兼主屋が国登録有形文化財に登録されることになり、25年ぶりくらいに訪問した。創業文政年間、江戸時代から200年余りにわたって続く老舗だ。初めて伺ったのはもう30年も前になるだろうか。生まれ育った燕市には古い建物が少なく、観光地以外では初めて見る町家造りに驚いたものだ。
初めて伺ったときに対応してくれたのは六代目の柄沢栄一さん。七代目の幸一さん(60)に聞くと2014年に87歳で亡くなったと言う。長身で顔が小さく、彫りの深い顔立ちは日本人離れしていてダンディーな印象だったのを今もはっきり覚えている。
栄一さんがまだ50歳だった計算になる約30年前、玄関にいちばん近い吹き抜けの茶の間には、白黒のバスケットボールの写真がかけてあった。それについて話を聞くと、栄一さんはうれしそうに話してくれたことを思い出す。
1942年(昭和17)、全国中等学校師範部籠球大会、今でいうバスケットボールのインターハイに出場し、全国優勝したときの写真だった。栄一さんは長岡商業籠球部で、決勝で長野商業と対戦。同点で延長戦に入り、最後は栄一さんがフリースローで決勝点を決めて優勝を飾り、栄一さんが全国一の立役者となった。
あらためて当時の話を幸一さんに聞いた。大会は陸軍大将、東條英機のツルの一声で甲子園球場の外側に設置された特設コートで行われた。地元に帰ると長岡駅前は歓迎の出迎えで歩くのもままならないほどのにぎわいで、三条に帰るとまるでスターのように扱われた。
早大や明大から誘いもあったが、予科練の道を選んだ。戦後、帰郷すると頼まれて三条高校、三条実業高校、三条東高校でバスケットボール部の指導にあたった。その後、三条高校バスケットボール部は全国で活躍するほどの一時代を築いた。
ほかにも戦時中は高い建物は取り壊すよう命令があって建物の一部を壊したこと、願いはかなわなかったがこの茶の間にジャイアント馬場が座って栄一さんがバスケットボールをやるよう勧めたこと、水野久美さんが芸能界へ入る前に相談を受けたことなどを話してくれた。
ただ、栄一さんが亡くなってからバスケットボールの全国大会の写真は外してあった。「親孝行のためにもう一度、飾ろうと思ってたところ」と幸一さん。国登録有形文化財への登録がそのちょうどいいきっかけになった。