東日本大震災からちょうど5年になった11日、三条市総合福祉センター内の避難者交流ルーム「ひばり」で行われた東日本大震災献花式で三条市立保内小学校の5年生26人が今も三条市内に避難している人たちに児童が栽培、収穫したコメを寄付したなかで、福島県南相馬市から市内に避難している千葉広美さん(46)と長女の紗也夏さん(15)親子が震災当時のことなどを話した。
紗也夏さんはバレーボールが好きな小学4年生だった。震災が起きたときは、学校で帰りの会をしていた。小さな揺れから始まり、教室の棚に置いてあった物が落ち、初めて体験する立っていられないほどの大きな揺れに「恐怖でいっぱいでした」。
帰宅すると家の中はぐちゃぐちゃで家族が片づけをしていた。手伝いながら、「このままどうなってしまうんだろう?」、「もう友だちとも遊べなくなるのかな、バレーボールもできなくなるのかな」と不安になった。
余震が続き、いつでも避難できるように家族と準備をした。被曝のおそれからいくつかの避難所を移動。「避難所生活は、とてもつらかったけど、たくさんの人に助けられました」と振り返った。
東日本大震災から5年たったが、「一生、忘れないことです。忘れてはいけないことです」、「私はここにくるまでに、たくさんの人々に助けてもらい、笑顔をもらいました。感謝の気持ちでいっぱいです」。さらに「この震災を通して、人と人が支え合うこと、助け合うことがどれだけ大切かおよくわかりました。そして、いつ何が起こるかわからないので、一日一日を大切に生きようと思いました」と話した。
広美さんは、紗也夏さんの妹が保内小児童と同じ小学校5年生で、当時は幼稚園の年長児。1週間後の卒園式を楽しみにしていた。広美さんの職場は自宅から約40キロ。震災が起きた日は、道路状況がわからなくて帰宅できず、3日間も家族と連絡がとれなかった。いつもなら車で1時間の道のりを6時間もかかって自宅にたどり着いた。「子どもたちが元気でいてくれたことが何よりうれしかった」。
繰り返す余震に、いつまた大きな揺れがくるのではと不安な時を2日過ごした朝、危険だから避難所に行くように言われ、食事の途中だったが、片づけもせず、持てるものだけバッグにつめて避難所へ。その夜、新潟県に避難が決まり、翌朝、言われるがままバスに乗り込んだ。
バスに6時間揺られ、着いたのが三条市だった。みんな疲れきっていて、これからどうなるか不安でいっぱいだったが、避難所の体育文化センターには、布団があり、部屋は暖かく、弁当とみそ汁が用意されていた。それまでの避難場所は、ビニールシートの上に毛布1枚にくるまって寝た。「布団に寝られる、それだけで嬉しかった」。
翌日から訪れるボランティアの人たちが勇気と元気をくれた。そのなかの学生から「小学校のときに7.13水害を経験し、そのときにみんなから助けてもらった、そのお礼をこの機会にさせてもらえるのがうれしい」と聞いたとき、「わたしたちも今はお世話になっているけれど、今後、震災とかあったときに助けてあげなくてはと思いました。子どもたちもそう思っていると思います」。
子どもたちは三条小学校に転入でき、「日常生活が送れたことが親としてはとてもうれしかった」。さらに、「こうやって節目、節目で会を開いてもらうことで、東日本大震災があったことを忘れてはいけないと思いますし、また、亡くなられた方のことを常に思いながら、私たちは命が助かったことを大切に生きていきたいと思っています」と締めくくった。