山形県で唯一、人口が増え続けている少子高齢化とは無縁の東根市の出身。菅野このみさん(22)は新潟県立大学に通いながら3年間、夏休みに小学生が4泊5日で燕三条地域で100kmを踏破する「寺子屋つばさ100km徒歩の旅」の学生スタッフを務めた。卒業のこの春、株式会社ビップ(加藤峰孝社長・新潟市中央区上所2)に就職が決まり、同社が本部を置く三条市のジオ・ワールド ビップで社会人生活をスタートする。
中学、高校と陸上部で100mハードルに熱中した。高校3年のときは県内2位の好成績を収めるアスリートだったが、その後に体をいためて引退した。県立大学では国際地域学部国際地域課で学び、サッカーサークルに入った。
2年生のとき。その前年に100km徒歩の旅の学生スタッフに参加したサークルの先輩に誘われて一緒に学生スタッフに参加した。100km徒歩の旅は大学生や専門学校生の学生スタッフが中心となって運営する。「なんとなく楽しそうと思った。ネタにもなりそうだし、好奇心で」。とくに子どもが好きというわけでもなかった。
いざ研修が始まると初日からイメージとまったく違った。「こんな“ガチ”な集団だと思わなかった。単に100kmを歩くだけと思っていた」。毎週のように行われる研修に参加するだけでも学業との両立には大きな負担だ。参加した学生スタッフの半分以上は途中でリタイアする。「負けず嫌い。研修が楽しかったわけじゃないけど、これでやめたら悔しいと思った」。意地っ張りな性格が菅野さんを学生スタッフにつなぎとめた。
菅野さんに与えられた役割は、隊列から遅れた子どもを隊列に戻すコーディネート。自分なりにうまくできたつもりだったのに、同じ学生スタッフからは「子どもを甘やかし過ぎ」、「本気なの?」、「強さが足りない」と指摘され、評価を得られなかった。「認められたいという願望があった。来年こそは強くなって見返したいと思った」。意地が翌年も菅野さんを学生スタッフに引き戻した。
2年目は女子の班の学生リーダーを束ねるリーダーだった。聞き分けのいい子ばかりで、本番の運営もスムーズに進んだがその分、子どもたちが得るものは少なくなる。「本当に子どもたちの成長につながっているのかと思い、どんな負荷を与えられるかと考えた」。アスリートとしてハードルを飛び越えてきた少女は、学生スタッフとなって子どもたちの前に試練のハードルを置くことになった。
ニックネームは「このみん」。4日目の最後の夜、子どもたちに、このみんのようなリーダーになりたいと言われた。子どもたちが自主的に動いてくれた。「やってきたことが間違っていなかったと自信をもつことができた」。2年目は「いい感じ」で終わることができたが、ゴールしても菅野さんには1年目のような涙はなかった。それは自身の成長の証しでもある。
そして3年目。「やらない理由がなかった」、「わたしがやらなきゃと思った」。引退したひとつ上の世代の学生スタッフの人材が豊富だった。「一瞬、自分も抜けようかと思ったけど、自分が組織を引っ張って成長したところを先輩に見せたい、やるしかないと思った」。役割や使命感に背中を押された結果、おとなの団長をサポートする学生スタッフのトップ、団長補佐に立候補した。
2年目にも「大勢の前で話したかった」と“ノリ”で立候補した。「まじめに立候補した先輩に申し訳なかった」と苦笑いするが、3年目は4人が立候補して2人の団長補佐のうち裏方をまとめる団長補佐に選ばれた。
「3年目だったし、ここで止まったら、新しく入った学生スタッフが挑戦しているのに、わたしは何も挑戦していないことになる。団長補佐になるのはわたしにとっての挑戦だった」。アスリートでもあった菅野さんにとって現場に出ない裏方は逆に難しかった。「嘉瀬一洋会長にすごく怒られた。わたしは現場向きで、自分で動いてしまう。体を動かすことはできても言葉が出ない」。組織図をよく見て、組織図通りに指示が行き届くように流れを意識し、全体を見るように心がけた。
「裏方は準備がすべてだとわかった」、「緊急時の判断がぱっとできることがリーダーに必要なこと」。親の世代に近い燕三条青年会議所OBのスタッフにも指示出しが必要なことがあり、気後れすることもあった。
3年間でいろんなことを体験し、「3年前の自分とは全然、違う」ときっぱり。大学での行動も変わり、世の中にはいろんな人がいることを知った。専門学校生、大学生、社会人と、100km徒歩の旅がなければ出会わなかっただろう人たちと一緒に活動できたのが財産だ。
嘉瀬会長に言われた「過去と他人は変えられない。未来と自分は変えられる」という言葉が強く印象に残る。「自分がその人に対する対応を変えたら相手も変わる。そういう考えができるようになったのが大きな収穫」になった。
その一方、仙台で就活をしていたが、本命の企業は最後の最後に落とされた。ショックは大きかった。新潟から仙台まで往復9.000円をかけて出掛けて就活するのがばかばかしくなった。仙台より新潟の方が知り合いが多く、新潟での就職を考えるようになった。
ビップは冠婚葬祭業。ブライダル関係のへの就職が希望だった。ここ数年のうちに初めて結婚式に出席し、葬式もあった。家族との関係を見直すきっかけになった。今は存在が当たり前の家族もいつかいなくなる。「今の家族が大事なんだとあらためて感じた」。学生時代に接客のバイトの経験もあり、人と直接、かかわる仕事がしたいとビップへの就職を目指した。
「親孝行がしたい。地元を離れただけで、親は泣いている。それでも自分のやりたいことをやれと言ってくれた。離れた土地でも生き生きとやっていることが親孝行になるのかと思う」。すでに住民票も三条市に移して、三条市民になった。
嘉瀬会長は「明るさがすごくあり、場を和ませる雰囲気をもっている」と菅野さんの魅力を話す。菅野さんは「燕三条はわたしにとって第二の故郷」。ふいに100km徒歩の旅で歩いた場所を通りかかる。「わたしの汗と涙がしみついた場所。見ると思いだす。だから頑張れる気がする」。間もなく燕三条で社会人生活の第一歩が始まる。