全国市長会(会長・森民夫長岡市長)から熊本地震の被災地支援の派遣要請受け、その第1号として4月22日から5月31日まで南阿蘇村に職員を派遣している燕市は11日、派遣職員の報告会を開いた。
燕市は防災課を中心に職員延べ10人を約1週間交替で2人ずつ派遣している。派遣職員のうち、主幹の十河(そごう)浩さん(55)は昨年度で自衛隊高田駐屯地の第二普通科連隊の副連隊長で退官し、この4月から燕市の任期付き職員となっている。
十河さんは昨年9月の御嶽山噴火や東日本大震災をはじめ、これまで全国各地で発生した大規模災害や自然災害で被災地に入り、行方不明者の捜索や救助、救援活動に取り組んだ。
被災地での救援活動のスペシャリストでもあり、十河さんはほかの職員より長く初日22日から5月10日までの19日間、派遣活動にあたったことから、十河さんが戻ったタイミングで報告会を開いた。
あわせて活動を終えた派遣職員の主事の菊地貴之さん(26)、用地防災課主任の渋川正良さん(46)も同席し、主に十河さんから鈴木力市長に活動を報告した。
十河さんは菊地さんとふたりで市のワゴン車、通称「燕号」を運転して出発。当初は南阿蘇村の中学校体育館に開設された避難所で任務にあたる予定だったが、南阿蘇村災害本部から十河さんの経歴を見て本部に入ってほしいと言われ、本部勤務を16日間、続けた。
任務の内容は当時、11カ所あった避難所への職員の派遣や状況確認、不足している物資の融通、自衛隊に対して給水容量の調整など。「市長から最初に言われた心のこもった支援ということで、直接ではないが間接的にそれぞれの避難所に対して生活環境を良くするように仕事をしてきた」と十河さんは話した。
南阿蘇村まで1,300キロの道中は通行止めだらけで、ところどころ信号の止まった交差点で警察が交通整理を行っており、「いかにも被災地」という状況。夜10時に現地に到着すると村役場も天井が落ちていた。「こんな所に災害対策本部をつくってるんだろうかというような所」と思った。
夜が明けて避難所を回ると被災者は「非常に苦労をされてる」、「毛布一枚、持ってくるのがやっとの人もいれば、車で寝ている人、テントを借りて寝ている人もいた」という状況で、何とか生活環境を改善させなければと思った。
ほかの地域からの派遣は飛行機などで訪れた職員がほとんどで、燕市の荷物が積める車での派遣は重宝がられた。十河さんは本部の班長を命じられ、避難所関係はすべて掌握した。廃校の中学校に救援物資を保管したが、すぐに保管場所がいっぱいになって物資の受け入れを断った。村は被災者6千人に対し自衛官9千人とマンパワーは十分だった。
このあと現地で撮影した避難所のようす倒壊した家屋、ひび割れた道路などの写真を示して説明。鈴木市長は「燕市の今後の防災力向上に生かしてもらいたい」と話した。
報告会のあと十河さんは、報道関係者の質問に答えた。被災地でのやりがいについては、報道されないことが多く、「そこに直接ふれ、ニーズに応えられたのはやりがいがあった」。高齢者が健康管理に苦労しており、小中学校が休校になっていたので、子どもたちがすすんでボランティアをしていたのが印象的だった。
避難所の運営で気をつけなければならないことがわかり、「その辺のところを今からマニュアル化してしっかりと市で徹底したい」。支援はステージが変わって二次避難所に移っており、通勤、通学、医療と意図しないところに入らざるを得ないので、そのケアが必要。村役場は車1台を出すにもきゅうきゅうとしており、輸送支援など中長期的な支援がこれから必要になる。
ボランティアは今は不足はなく、逆にあふれて困ってる状況。やってもらいたいのは1点、自衛隊が対応できない個人宅のがれきの除去だが、がれきを運搬できる車を用意しているわけではなく苦労している。
東日本大震災での活動の経験から、給食や物資の供給がシステマチックにやらなければいけないなということがあり、山積みした物資では役に立たず、必要な所に必要なものが行くようにきっちり整理してほしいと自衛隊と話しながらやってきたと語った。
南阿蘇村は熊本地震で最大震度7を観測。11日午前6時現在、18地区の2,000世帯、4,694人に避難勧告を出している。