今年度で閉校する三条市立三条小学校(小林修校長)を帰省した三条小卒業生から見学して懐かしんでもらおうと、同校同窓会(石崎順一会長)は14、15の2日間、三条小を開放して見学してもらい、2日間で延べ300人ほどが訪れた。
児童玄関前に「卒業生の皆さん おかえりなさい」と書いた看板を立て、玄関を入ってすぐのところに過去の卒業アルバムをまとめて並べた。今は締め切って児童も利用できなくしている屋上も開放した。それ以外は特別なことは行わず、ありのままの今の三条小の姿を見てもらった。
三条小は市内小学校で最も歴史が長く、創立144周年。今の校舎は1887年(明治20)に建設された木造校舎を建て替え、三条市内で初めての鉄筋コンクリートの校舎として1956年(昭和31)に完成し、ことしでちょうど60年になった。
三条小卒業生同士の親子での来場が多かった。卒業アルバムは1955年(昭和30)以降はほぼそろっており、親子でそれぞれの6年生のときの顔を探して懐かしんだり、あちこちから「懐かしい!」という声が上がったり。校舎を通じて世代を超えた郷愁を共有していた。
1942年(昭和17)入学の三条市に住む中條耕二さん(80)は15日、帰省中だった埼玉県朝霞市に住む三女道上菜保子さん(49)の子の高校2年果織さん(17)と中学3年拓矢君(15)と3人で訪れた。菜保子さんは三条小卒業生だが今回は帰省できず、中條さんにとって孫にあたる2人は初めて母の母校をたずねた。
卒業アルバムで母を探した。記念写真から母ではないかと思われる3人の顔を見つけ、名前と照らしてそのうちのひとりが母であると確認。小学校6年生の母と対面した果織さんは「ちょっと男っぽいかも」、拓矢君は「ぼくとちょっと似ている」と感想を話した。
卒業アルバムには文集もあり、菜保子さんは「思い出」のタイトルで2年生のころにはやった雲梯(うんてい)について書いていた。校舎について香織さんは「歴史がある学校だとすごく感じた」、拓矢君は「古くて逆にそれが新しい」と言い、ふたりとも帰省できなかった母に「写真をいっぱい撮って送ってあげたい」と話していた。
中條さんは三条小卒業後も親となって今度はPTA会長になり、三条市PTA連合会会長も務めた。中條さんは、まるできのうのことように当時のようすを話す。
PTA会長だった1975年(昭和50)から三条凧ばやしの演奏と踊りなどに取り組む「ふるさと運動」を始め、その活動が評価されて1979年(昭和54)に文部大臣賞を受けた。
東京都・江東区立東洋小学校が三条小に集団疎開して来たことを覚えている。東洋小のホームページによると、1944年(昭和19)8月26日に当時の三条市、加茂町、下條村に分かれて集団疎開したことがわかる。
当時は1887年(明治20)に建設された明治時代に木造校舎。男子と女子の玄関が別だった。プールはなく、五十嵐川で泳いだが、命を落とすこともあったと言う。物資がなく、いつも空腹で、卒業生も出兵して数多く戦死した。三条小では戦地から帰還した先生に学んだ。
この日は終戦記念日。「近所のラジオを持っている家に集まって正座して玉音放送を聞いた」。
プロレスラーの「ジャイアント馬場」こと馬場正平さんとも親しかった。三条市立第一中学校野球部で3年になったときに、馬場さんが1年生で入部してきた。「大きなくつがなくてね。はだしでやってた。優しい男だった」。
馬場さんが巨人に入団すると2度、東京へ試合を見に行った。プロレスラーになると、今度は三条市厚生福祉会館で行われた興行を子どもを連れて応援に行った。無理を行って馬場さんからサインをもらったこともあり、「こうやってみるると失礼なもんです」と笑う。
そこで生のプロレスに魅了されたのが、長男の中條耕太郎さん(46)。以来、プロレスファンになり、今はジャイアント馬場を三条市の名誉市民にと署名活動に取り組み、実現はもうすぐ手の届くところまできている。
2階から弥彦線の方向を見下ろす中條さんは「ここからSLが走るのが見えた。ここに来ると涙が出るわ」と窓の外の景色を眺めていた。
見学会を主催した同窓会は、帰省した卒業生にも最後の三条小に足を踏み入れて懐かしんでもらおうと盆に見学会を企画した。会長の石崎順一さん(63)は、「そんなに人が来ないだろうと思っていたが、意外と多かったという感触」。「いろんな思い出が詰まっているのが小学校。玄関前のマツの木が樹齢百年以上というのも84歳の卒業生から聞かなければわからなかった」とあらためて三条小の歴史の重さなどを実感していた。
見学会は2日間だけだったが、ふだんでも学校に頼めば見学できるほか、10月末の展覧会、11月の創立記念日、来年2月のもちつきの行事でも誰でも来校できる。