一般社団法人燕三条青年会議所(関義実理事長)は29日、燕市役所で設立20周年記念式典を行った。来賓や各地の青年会議所から合わせて630人が出席するなかで燕市と三条市の合併の実現に向け、先駆けて燕、三条の両青年会議所を統合した20年前の強い思いに立ち返り、合併実現に向けて新たに歩みを進めることを決意する節目とした。
式典は午後から市役所南側の芝生が張られたおもてなし広場にパビリオンを設置して行った。関理事長はまず「燕三条青年会議所は20年前に人口30万人の県央中核都市実現に向けて先輩方が燕青年会議所、三条青年会議所のふたつのLOM(各地会員青年会議所)を統合し、設立した。そこには先輩方も計り知れない決断があった。その情熱と勇気にあらためて敬意を表したい」と両市合併を実現するという創始の強い思いから話した。
式典のテーマを「GOUP! 次へ、進もう。」とし、先輩から何を受け継いできたのか、進むべき方向性と存在意義を示す場と位置付け、「われわれは未来を見据え、やはり設立の基本理念に従って人口20万人の県央に中核市を誕生させる。そのためにはまず燕三条市の実現。これに尽きると思う」とこれからも目指す方向は変わらず、「ご理解とご協力を得ることがこの式典の目的だと考えている」と合併実現だけにポイントをしぼって話した。
それを受けて鈴木力燕市長は、平成の大合併では燕市と三条市の合併はかなわなかったが、「その後もとことん燕三条にこだわり続けてまちづくり、あるいは青少年育成に取り組んでこられた。本当に心より敬意を表したい」と評価した。
一方で「三条市が連携した取り組みは、とくに近年、充実してきている」、「全国的にもこの地域はすごく注目される地域になってきている」と合併せずとも両市の連携が深まり、注目を集める地域になっており、「その根底にあるのは、やはり若い人たちが一生懸命にいろんなことに取り組んでいるから」で、「燕三条 工場の祭典」など「若い人たちのエネルギーが、パワーがその原動力になっている」。
そして「年号も変わると言われている。そしてあの第四銀行と北越銀行が経営統合するという状況も生まれるくらい世の中、先はどう展開するわからない」と例え、とことん燕三条にこだわり続けて活動する燕三条青年会議所に対し「皆さんの行動には心よりエールを送りたい」。
大河津分水路は、くわ入れから通水まで50年以上もかかって実現し、越後の守り神とこの地域の繁栄をつくったことになぞらえて、「燕三条青年会議所のこれからの30年、40年、50年に向けての活動がきっと皆さんの願いをかなえてくれる日が来るのではないかと、この会場の皆さん共通の願いとして思いつつ、その行動に対して重ねてわたしはエールを送りながら、この20周年記念のお祝いの言葉とさせていただく」とした。
国定勇人三条市長は、「いちばん最初の選挙のときからこの燕三条という地域はやはりひとつになってこそ相乗効果が高まり、国内外に冠たるものづくりのまちとして永続的な発展を遂げることができるんだと、そんな思いのなかでさまざまな取り組みを進めてきたつもり」と燕三条青年会議所と思いを共有していることから話した。
ここ数年、燕三条地域の一体感を感じる場面が多くなってきており、両市の首長としても市長会や知事との協議の場では、燕市、三条市ではなく、燕三条地域という主語で発言することが常態化している。「わたしたちは本当に連携を深め、パートナーシップを築き、同じものづくりのまちとして同一の生活圏域をもっている地域として確かな歩みを進めてきている。そのような自負心をもっている」。
ことしはシンガポールでも燕市長とともに燕三条をPRしてきて、この地域の魅力を十分に感じてもらたと思うが、最終的なゴール、関理事長の言う燕三条JCの原点を考えると「まだまだ道半ばと言わざるをえない」とし、三条市と燕市の橋渡しをする燕三条青年会議所にからめて薩長連合誕生の経緯を紹介した。
幕末、薩摩と長州が一緒になればより良い日本を築き上げることができるのではないかと多くの志士が感じていた矢先、当の薩摩と長州は互いを不審に感じ仲違いをしていた。最終的には若き志士の坂本龍馬が間をとりもち、薩長連合という見事な同盟関係を築き上げ、今の日本の礎をつくった。
この薩長連合とて最初から順風満帆な経緯をたどったわけではなく、中岡慎太郎が薩摩に飛び、坂本龍馬が長州に飛び、それぞれがそれぞれを説得しあい、一度は中岡慎太郎は薩摩の説得はかなわないと、さじを投げたが、「その夢を捨てずに必死になって説得をし続けた結果、この歴史的な大転換が実現をした」。
「念ずれば通ず。燕三条JCさんがいちばん最初に掲げられた御旗は、今でも間違いなくたなびき続けている」と燕三条青年会議所に照らした。
「皆さん自身が希望を捨てなければ、皆さんは間違いなく坂本龍馬になれると確信する。わたしも鈴木さんと気持ちを同じく皆さんのその活動にエールを送り、1日も早い皆さんの悲願を実現できるようわたし自身も精一杯の努力をしてまいりたいし、この場であらためて約束をさせていただく」と誓った。
小林豊彦弥彦村長は、「最初の設立目的については、わたしは何も申し上げる資格もございませんし、言ってはならないと思っている」が、鈴木燕市長、国定三条市長は「非常に良い関係にあり」、「こういう関係にわたしも少しでも関わらせていただきたい」。
「その背景には、きょうのお話があってわかりましたけれども、燕三条青年会議所の皆さんのお力であって切磋(せっさ)されるところは切磋し、張り合うところは張り合い、協調するところは協調して燕三条ここまで発展されてる」と述べた。
燕三条JC宣言の改定も発表した。改定された宣言文は「一般社団法人燕三条青年会議所は『県央中核市』誕生を目指し、燕三条市実現に向けて運動する」。
燕三条JC宣言は10周年のときに初めてつくった。その宣言文は「我々社団法人燕三条青年会議所は設立の基本理念と先輩の志を心に刻み『燕三条』にこだわって連動することを宣言する」。その後、組織が変わって14周年のときに「社団法人」を「一般社団法人」に変えたが、実質的な改定は今回が初めて。
「県央中核市」、「燕三条市」を再びはっきりと合併を旗印に掲げ、関理事長が話したように合併実現という大きな山を登る覚悟を高らかに宣言する式典となった。