燕市道金、不動大社(竹之内ミツイ宮司)で5月28日、春季大祭に伴う2年ぶりの火渡りが行われた。百人ほどの信者が参拝に訪れ、所願成就や病気平癒を願って火渡りに挑んだ。
毎年5月最後の日曜に春季大祭を行っている。2年前まで竹之内宮司の長男、竹之内満さんが祭主を務めてきたが、春季大祭まで1カ月足らずとなった昨年5月8日に急逝。火渡りの祭主の代役を務められる人がなく、やむなく昨年は火渡りは中止し、護摩祈とうだけ行った。
ことしは不動大社の代表役員で満さんの娘の相田亜弓さんが1年間、準備を進めて祭主を務め、火渡りを主導した。火渡りは修行を積んだ行者や山伏らによって執り行われるが、不動大社でその役を担うのは一般の信者ら。白装束に身を包んで行った。
芝を張った境内に結界をつくり、中央に井げたに組んだ木をスギの葉で覆った高さ1.5メートルほどある大護摩を設けた。祝詞をあげ、玉串を捧げてから長い竹ぼうきのような道具を使って点火。大護摩はもくもくと白い煙を上げ、信者らが般若心経を唱えるなか、信者が願いを託した札木をくべ、弓太刀行事や火鎮めの儀、参拝者のはらいなどを行った。
火が収まったら歩く場所を整え、金幣(きんぺい)を掲げた相田亜弓さんを皮切りに紙垂(しで)を手にした信者が願いを込めて次々と火渡りすると、祭壇に参拝した。
種屋を営んでいた竹之内宮司は、3人の子どもを産んでから体調を崩し、旧西川町曽根の修行場に1週間、泊まり込んで修行して神の憑依(ひょうい)を得て目覚め、1957年(昭和32)10月5日に燕市水道町(当時の上太田)の自宅の1室を信仰の場に充てて信仰を始めた。
医者にも見放された病気や科学的に説明できない障りを除くのにご利益があるとしだいに人が集まるようになり、70年(昭和45)11月に新発田市の菅谷不動尊の分霊を受けてまつった。その数年後から神道修成派燕教会と名乗り、さらにその後、神社庁にも所属しない独立した単位宗教法人として不動大社と名乗るようになった。
不動明王の霊示により71年(昭和46)に宮城県岩沼市の竹駒稲荷神社から竹駒稲荷大神の分神を受けて合祀(ごうし)している。
火渡りは南魚沼市の八海山神社で毎年10月20日に行われる八海山大崎口火渡大祭を72年(昭和47)とその翌年に竹之内宮司らが参拝したのがきっかけ。竹之内宮司は行者として神事に参加した。そこで火渡りの儀式や大護摩の組み方を学び、74年(昭和50)に試行的に初めて火渡りを行い、その翌年から正式な火渡りを行っている。
以来、休むことなく毎年、火渡りを続けてきたが、昨年は初めての中止。2年ぶりとなった火渡りで初めて祭主を務めた相田亜弓さんは「初めてなのでわけがわからなくて」と戸惑いは大きかった。
父の竹之内満さんは、93年(平成5)に死去した祖父の竹之内昇一さんに変わって翌年から20回余り、火渡りの祭主を務めてきた。竹之内満さんが急逝したため、何の引き継ぎの準備もなく、過去の資料を収集し、火渡りに使う道具から勉強し直した。
大役を務めた相田亜弓さんは「終わってしまえばあっと言う間でした」と初めての火渡りを振り返り、「父の義兄も手伝ってくれ、わたしひとりではとてもできませんでした。皆さんがあってこそ」と大勢の力に感謝した。
71年(昭和46)5月末ころから日参を続ける熱心な信者の燕市秋葉町、清水功さん(84)は「落ち度のないように火渡りをやるのは大変。もとの火渡りを全部、取り戻すというわけにはいきませんが、大事な不動さまの指示に従えばいい」と火渡り復活を喜んだ。