三条市名誉市民の写真家渡辺義雄さん(1907-2000)の生誕110周年記念展が24日から28日まで5日間、三条東公民館で開かれており、初日25日は大阪府吹田市に住む渡辺さんの長女中島ちえ子さん(68)と渡辺さんの薫陶を受けた日本写真家協会副会長で写真評論家、写真家の松本徳彦さん(82)によるトークショーが開かれた。
渡辺さんは明治40年に旧三条町の呉服商「山与」の渡辺寅蔵の五男に生まれた。建築写真家で1953年の式年遷宮で初めて伊勢神宮の撮影を許可され、その後も73年、93年の式年遷宮も撮影。日本写真家協会の2代目の会長、日本写真芸術学会の初代会長、国内初の本格的な写真美術館「東京都写真美術館」の初代館長を歴任し、国内写真界の頂点を極めた重鎮だった。1990年に文化功労者となり、同じ年に三条市名誉市民になっている。
トークショーには約60人が参加し、フリーアナウンサーの松井弘恵さんが聞き役を務めた。渡辺さんの印象について中島さんは、家で仕事をしながら「ウイスキーを片手にちびちびしながら飲んでる姿しか思い浮かばない」が、「この写真を見てどう思うとか聞かれたことも何回かあり、怖いということはまったくなかった」と話した。
渡辺さんの写真については弟が対応してきたが、「弟が亡くなったあと急にわたしに降りかかってきた」。会場を訪れて「父が皆さまにこんなに愛されてよくしていただいていたんだということをあらためて感じている」と話した。
渡辺さんは1958年に日本大学芸術学部写真学科の教授に就いた。松本さんは同科を卒業した。当時のことについて松本さんは、渡辺さんの授業は「4年間のなかで10回となかった」。それだけ渡辺さんは仕事に忙しく、その間をぬっての授業だったが、渡辺さんの「一言一言が非常に心に残っている」と振り返った。
“写真のいろはより心構えを大事にした”
「写真を撮るということはどういうことか、そして写真を撮ったら、皆さんに写真を差し上げるがどういう仕上げをしておくか。そこが基本だよとおっしゃってました」。仕事で撮った写真はA4判くらいに伸ばしたものを渡すが、著作権の関係もあって早く写真がだめになってくれた方がいい。印刷した後はいらないという考えがあった。
記念写真は大きくてもキャビネサイズだが、「これを差し上げるとこの人は一生、持っているよと。一生、持っているものと1カ月か2カ月で捨てられてしまうものとを比べたら、一生のものの方が大事なんだよと。ところがみんな小さいサイズだと粗末にと言うか適当な処理をしてしまう。それは良くない。これは基本だよという風なことをおっしゃいました。渡辺先生は写真のいろはと言うよりも、心構えというものを非常に大事にされた」と渡辺さんの思いを代弁した。
渡辺さんは、建築物がどういう経緯ででき、建築家はそれをどう作ったかを撮った。千年、二千年前からの流れをくんだ日本の伝統的な美しさをどう見せるかということにいちばん力を注いだ。松本さんがフランスで展覧会を企画したときに渡辺さんの作品も60枚くらい展示した。「外国の人にとっては目からうろこみたいな作品で驚きだった」、「とくに伊勢神宮の荘厳さ、モノクロームの白木であったということ。これが大変、外国の人には驚きだったようですね」。
“時間と丹精を込めた精緻な写真が鑑賞のポイント”
今回、展示した作品の見方のひとつとして「日本の建築は非常に耽美。線を大事にしている。装飾が華美になっていない」、「迎賓館はベルサイユ宮殿を模したヨーロッパ調の派手な建物。色彩もいろいろあって。そういう違いがあるところを見てほしい」。
渡辺さんは有名な寺で写真を撮ったが、仏像などはほとんど撮らず、ほとんどは建造物。「ほかにこれだけ精密に撮る写真家はちょっといらっしゃらない。それはご覧になればすぐにわかると思うが、線一本に狂いがない。われわれが撮ると建物と建物がくっついたり、水平線が狂っていたりということがよくあるんですけど、まったくそういうことがありません」、「それだけ時間と丹精を込めてつくっている」と鑑賞のポイントをアドバイスした。
迎賓館を一般公開するときに総理府から絵はがき用の写真撮影を頼まれた。「渡辺先生を差しおいてぼくが撮るなんてと思ったんですけど、(渡辺さんに)ここはどうやったんですか、いろいろおたずねしてノウハウを聞き出して準備した」。
撮影には大がかり仕掛けもあった。部屋の中はタングステンと呼ばれるライトがともり、窓からは外光が入る。光線の線質が違うので色が変わるため、幅約1メートルのフィルムを窓という窓の外側に全部、張ってタングステン用のフィルムで撮影した。撮影そのものより撮影前の準備の方に手間がかかった。
参加者から「写真が目で見えた通りに撮れない」という質問に関連して松本さんが話した。渡辺さんの当時は、写真はカメラを三脚に載せるところから始まった。「写真はカメラが撮るんじゃない。目が撮る。どこがいちばん気に入ったか、どこがいちいばん美しく見えたかというのをまず探す。そしてその場所にカメラを据える。そこから今度は雲の動きとか、光の動きとか、そういうものを見て、ここぞというときに初めてシャッターを切る。そういう基本中の基本を一生、やられたということでしょう」。東宮御所が新築されて報道陣に公開されたとき、渡辺さんが光や雲の状態を見極めるために2時間以上、同じ場所で撮っていたエピソードも紹介した。
“写真の著作権の保護期間延長の推進役は渡辺さん”
写真の著作権にもふれた。著作物の著作権の保護期間は、今は一律で死後50年だが、松本さんが働いていた当時は1899年(明治32)にできた法律で撮影からわずか10年の保護期間しかなかったが、文芸、美術は死後30年だった。
「写真はそれだけある意味では差別されていた。まだ普及していない、あれは美術と言えるものではないという判断があったからそうだった。約70年かかってわたしたちが運動をやってきて今のような法律に変わった。そのいちばんの推進役が渡辺さんだった。自分の写真がこんなふうに粗末にされるのはいやだ。みんなで力を合わせて運動をしようとやった」と渡辺さんの功績を強調した。
“父は何かにつけて三条はふるさとだと思っていた”
最後に中島さんは「わが家は12月の口取りに始まって新潟の雑煮、サケで、本当に新潟を愛してた、三条を愛してたと思います。フィルムを入れる桐だんすをこちらの方にお願いしたり、何かにつけて三条はふるさとだと思っていたと思います。来る前にも一応、こういうことで展覧会をしますということを報告してきたので、返ったらまた報告したい」。
松本さんは、先輩が撮ったフィルムの原板を保存する仕事があり、約40万点のフィルムを集め、うち約1万点を文化庁の少なくとも100年はもつだろうという施設の収蔵庫に入れて保管していることなど、保存に力を入れていることを話した。